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昔の小中学生は、遠足や修学旅行のとき、車窓の風景を真剣に眺めていたものだ。見知らぬ(注1)土地の風物(注2)に、興味をかきたてられていた(注3)のである。
ところが、最近の小中学生は、乗り物の窓の外を眺めようとはせず、バスの中ではマイクをにぎって歌に夢中になっているらしい。あるいはクイズやゲームを楽しんでいるという。そんな話を、諏訪に講演に行ったとき、小学校の校長先生からうかがった。
わたしは、それを「目的地主義」と名づけようと思う。最近の人々の考えでは、旅は目的地に着いてからはじまる。目的地に到着するまでの移動の時間は、どうも無駄な時間に感じられている。それをなんとか工夫して楽しくしようというのが、車内におけるカラオケやゲームである。 (中略)
かつての旅は、道中が楽しかった。弥次喜多の東海道中も、水戸黄門の漫遊も(注4)、むしろ道中そのもの(注5)に意義があった。ところが、新幹線や空の旅になると、旅の途中は退屈に感じられる。とくに空の旅は、途中はなんにもない。それで、わたしたちの旅の意識が、目的地主義になってしまったようだ。
旅の意識が変わるだけならまだいい。恐ろしいのは、わたしたちの人生に対する態度が、目的地主義になってはいないか…という心配である。人生は「道中」が大事だ。高校生であれば、高校の三年間の毎日を大切にせねばならない。目的地は大学だから、大学に入ってから人生をはじめるーーといった考え方はおかしい。サラリーマンが、課長や部長を目的地にして、そこに至る「道中」を軽視するなら、その人の人生は寂しいものだ。
(注1) 見知らぬ:見たことがない
(注2) 風物;自然の景色や人々の暮らしの様子
(注3) 興味をかきたてられる:ここでは、興味がわいてくる
(注4) 弥次喜多の東海道中も、水戸黄門の漫遊も:旅行を題材にした昔の二つの物語のどちらも
(注5) そのもの:それ自体