ことばがこうして、いいとか、悪いとか価値づけされて受けとめられている、ということは、ことばが、人間の道具として使いこなされているのではなく、逆に、何らかの意味で、ことばが人間を支配している、ということを示している、と考える。「近代」が「混乱」であり「地獄」であると思い込む者lJI、「近代」と名のつくものを、‐考えるよりも前に、まず憎むであろう。他方「非常に偉い」ように感じている者は、冷静に見てみるよりも、まずあこがれるであろう。
  ①人がことばを、憎んだり、あこがれたりしているとき、人はそのことばを機能として使いこなしてはいない。逆に、そのことばによって、人は支配され、人がことばに使われている。価値づけして見ている分だけ、人はことばに引きまわされている。 このような事情は、「近代」に限らない。これは私たちの国における翻訳語の基本的特徴なのである。
 ②翻訳語の成立の歴史について考えるとき、これを単にことばの問題として、辞書的な意味だけを追うというやり方を、私はとらない。ことばを、人間との係わりにおいて、文化的な詈件の要素という側面から見ていきたいと思う。とりわけ、ことばが人間を動かしている、というような視点を重視したい。
 たとえば、「近代」はmodernなどの西欧語の翻訳語として、1世紀前頃から使われるようになったことばであるが、modernを中心に見れば、③このことばは、「近世」とか、その他いろいろなことばに翻訳されている。しかし、とくに私が、「近世」その他ではなく、「近代」という翻訳語に注目し、ここでとりあげる理由は何か。それは、とくに「近代」が、人々を惑わせることばになりがちだからである。
 ことばが憎まれたり、あこがれられたりするような事情は、ことばの通常の意味、辞書的な意味からは、どうしても出てこない。それだけに、従来ことばについて専門‐的に考察する人々に、ほとんど無視されてきた。だが、見過ごされてきたにもかかわらず、ことばの問題としても、また学問・思想、広く文化の問題としても、とても重要なこと、と私は考えるのである。
 私は、翻訳語の成立の事情を考察するとき、以上のような視点を重視している。つまり、ことばの、価値づけられた意味である。そしてそのことは、ことばの乱用、流行現象、ことばの表面上の意味の矛盾、あるいは異常な多義性、というような面からとらえていくことができる。逆に見れば、「近代」などの翻訳語は、こうして乱用され、流行することによって、翻訳語として定着し、成立してきた、と言うことができると思う。

(柳父章『翻訳語成立事情J岩波新書を一部改)

1。 (66)①人がことばを、憎んだり、あこがれたりしているとは、どういうことか。

2。 (67)筆者が考えている②翻訳語の成立の歴史とは具体的にどのようなことか。

3。 (68)③このことばとは、何を指しているのか。

4。 (69)この文章で、筆者が最も言いたいことは何か。