日本人に個性がないということはよく言われていることだけれど、今世界的に、1週間、或いは年間にどれだけ働くか、ということについて、常識的な申し合わせが行われていることには、私はいつも①違和感を覚えている。
私は毎年、身体障害者の方たちとイスラエルやイタリアなどに巡礼の旅をしているが、一昨年はシナイ山に上った。盲人も6人、ポランティアの助力を得て頂上を究めた。普段、数十歩しか歩けない車椅子の人にも、頂上への道を少しでも歩いてもらった。②障害者にとっての山頂は、決して現実の山の頂きではない。もし普段100歩しか歩けない障害者が、頑張ってその日に限り、山道を200歩歩いて力尽きたら、そここそがその人にとっての光栄ある山頂なのである。
人間が週に何時間働くべきか、とぃうことにも、ひとりひとりの適切な時間があると思う。労働時間を一律に決めなければならない、とするのは専門職ではない、未熟練労働に対する基準としてのみ有効である。未熟練労働者の場合は、時間あたりの労働賃金をできるだけ高くし、それによって労働時間を短縮しようとして当然である。
しかし、専門職と呼ばれる仕事に従事する人は、労働報酬の時間あたりの金額など、ほとんど問題外だ。私は小説家だが、小説家の仕事も専門職に属するから、ひとつの作品のためにどれだけ時間をかけようと勝手である。短編をほんの2、3時間で書いてしまうこともあるし、10年、20年と資料を集ゅ調べ続けてやっと完成するものもある。ひとつの作品に私がどれだけの時間や労力や調査費をかけようが、昼夜何時間ずつ働こうが、それは私がプロである以上、自由である。
日本の社会の中には、職場の同僚がお互いに牽制する(注1)ので、取ってもいいはずの休みも取れない人が確かにかなりいる。小さな会社の社長に頼みこまれると、したくもない残業をしなければならなくなる社員もいる。そうしないと会社が潰れて失職をすることが目にみえているからである。その結果「過労死」などということも稀には起きることになる。
しかし日本人のなかには、仕事が趣味という人も実に多い。ブルーカラーと呼ばれている人たちの中にさえ、どうしたら仕事の能率が上がるか考えている人はざらである(注2)。趣味になりかけているものが、たまたま会社の仕事だから、時間が来たら帰らねばならない、というのもおかしなことだ。それは③プロの楽しみを妨げることであって、一種の個人の自由の東縛というものである。
ただそれほど働きたくない人は仕事をしない自由を完全に守れるように、社会は体制を作り変えるべきである。しかし同時に、一律に休みを取れ、というような社会主義的発想は、いくら世界の流行だとはいえ、自由を手にしている人間に対しては、個人への干渉であり、非礼である。
(曽野綾子「日本人の心と家J読売新聞社による)
(注1)牽制する:相手に注目して、自由な行動をじゃまする
(注2)ざらである:よくある