(1)
かつての石器時代のことを想像してみよう。このような人間の集団は、大きな洞穴か何かをみつけて、そこを住みかにしていたであろう。そのような場所で生まれた子どもたちは、まわりにたくさんの人々を見たはずである。
(中略)
たぶんその時代には、だれも子どもを教育しようなどとは思っていなかったろう。子どもたちがうるさかったり邪魔だったりしたら、大人たちはどなりつけて追っ払ったかもしれない。子どもたちはそのようなことから、何をしてはいけないか、どうしなくてはいけないかなど、生きていくうえで大切なことを、自分で学習していったのだと思う。そして、それを学んだことに、①
ある種の満足感をおぼえていたのではなかろうか?こういうのが、人間という動物における学習の遺伝的プログラムの本来の姿なのではないだろうか?
今、世の中はたいへん「進歩」して、「個人」が大切にされ、プライバシーが尊重され、それぞれの家族が団地のドアの中で隔絶されて生活している。学校へいっても、つきあえるのは同じ年齢の同級生ばかり。先生たちは大人の男や大人の女としてではなく、「先生」として生徒に接する。子どもたちは何が学習できるのだろうか?石器時代には十分に学習できたことを、今はほとんど学習することができなくなっている。それは、人間という動物として➁
大人になっていくための遺伝的プログラムが具体化されないということだ。
大学というところは、じつは石器時代によく似ている。18歳から22歳という、たった四年の差とはいえ、性的にも精神的にもきわめて変化の大きい年代の学生がたくさんいる。男もおり、女もおり、キャラクターも経験も能力もみんなちがう。部活(クラブ活動)では先輩後輩がいる。先生も若い人から定年近く人まで、これまたキャラクターも何もみなちがう。事務職員の人もそうだ。小さな子どもや赤んぼこそいないけれど、ある意味ではこれは石器時代の洞穴の中の状況に似ている。そこで学生は、人生にとって大切な、じつにさまざまなことを学習できるのである。そして③
それによって、ちゃんとした大人の人間になる遺伝的プログラムが具体化されうるのだ。
講義で聞く知識などは、一時的なことである。この技術革新の速い世の中では、大学で習った知識などすぐ古くなってしまう。しかし人とのつき合いかた、勉強のしかたなどというものは、一生役に立つ。大学という石器時代の中では、その気になればそれを十分に学習することができる。
(日高敏隆「人が育つ大学」『大学活用法』岩波書店)