テキストを一段落ずつ生徒に声を出して読ませるということは、日本の学校の国語の授業でも度々行う。
「はい、○○君、良く読めましたね。では、△△さん、次の段落を読んでください」となる。ところが、ソビエト学校の場合、一段落読み終えると、その内容を自分の言葉で掻い摘んで話すことを求められるのだ。かなりスラスラ文字を読み進められるようになり、おおよその内容も理解できるようになった私も、この掻い摘んで話す、ということだけは大の苦手だった。当然、絶句してしまい先生が諦めてくれるまで立ち尽くすということになる。非ロシア人ということで大目に見てくれていたのだ。
ところが、ドラゴンは執念深かった。なかなか諦めてくれない。しかし、十二分に楽しんだはずの本の内容を話して聞かせようとするのだが、簡単な単語すら出てこないのである。俯いて沈黙するわたしに、ドラゴンは助け舟を出してくれた。
「主人公の名前は?」
「ナターシャ……ナターシャ・アルバートヴァ」
「歳は幾つぐらいで、職業は?」
「ハチ。ガッコウイク。ニネン」
「ふーん、八歳で、普通学校の二年生なのね。それで」
(中略)
わたしの話を聞き取ることに全身全霊を傾けている、ドラゴンの獰猛に輝く青緑色の瞳に吸い込まれるようにして、わたしは何とか本のあらすじを最後まで話し、さらには作者のメッセージを曲がりなりにも
(注1)言い当てることができた。それでもドラゴンは飽き足らず、二冊目の本について話すよう催促し、同じような執念深さで聞き取っていく。ようやくドラゴンから放免されて図書室から出てきたときは、疲労困憊して朦朧とした意識の中で、金輪際
(注2)①ドラゴンの尋問は御免被りたいと思ったはずなのに、まるで肉食獣に睨まれて金縛りにあった小動物のように、わたしは図書館の本を借り続けた。そして、返却するときにドラゴンに語り聞かせることを想定しながら読むようになった。活字を目で追うのと並行して、内容をできるだけ簡潔にかつ面白く伝えようと腐心
(注3)しているのである。
(中略)
ある日、国語の授業で、声を出して読み終えた後、国語教師はいつものように期待せずに、②形だけの要求をした。
「では、今読んだ内容を搔い摘んで話して下さい」
わたしは自分でもビックリするほどスラスラとそれをやってのけた。いつのまにか、わたしの表現力の幅と奥行きは広がっていたのだった。国語教師もクラスメイトたちも、しばし呆気にとられて静まりかえった。
(米原万里「心臓に毛が生えている理由」角川文庫による)
(注1)曲がりなりにも:不完全だが。完璧ではないが一応。
(注2)金輪際:決して。絶対。
(注3)腐心する:ある目的のために一生懸命になること。苦心する。