かつて大人たちは、子どもたちがゲームやテレビアニメに熱中しているのを見ると、「現実とヴァーチャル世界の区別のつかない人間になってし まう」と心配した。そして、時に子どもたちが信じがたい、残忍な犯罪を起こすと、「ゲームやアニメの世界で簡単に人が死んでいくのを見てきたから、現実世界でもゲーム感覚で簡単に人を殺すようになった」とマスコミは書きたてた(注1)。

 しかし、当時そういった、いかにも短絡的(注2)で、ステレオタイプな論調を耳にするたびに、「いくらゲームやアニメ漬けの生活をしていたとしても、実際に現実とヴァーチャルの区別がつかなくなり、シューティングゲームで敵を殺すように、簡単に生身の人間を殺してしまうなんてことは、まずあり得ない」と、多くの人は思っていたはずだ。

 (中略)しかし、①どうやらそうではないらしいことが、しだいに明らかになりつつある。

 日本人は、戦後一貫して、アニメ、ゲーム、キャラクターに囲まれる生活をしてきた。そして、キャラクターとの間にもはや抜き差しならない(注3)ほど強い精神的な絆を結んでいる。その中で、「キャラ化」の感覚は常に、ぼくらと寄り添い、身体化し続けているのだ。

 キャラクターだけでなく、高度情報化の包囲網もぼくらから「現実世界」との接触を奪いつつある。

 一九九〇年代以降のインターネット、携帯電話の急速な普及は、高度情報化社会を一気に生活レベルにまで浸透させた。今では、多くのビジネスマンは日々パソコンの前で生活し、他の多くの人たちも携帯電話から目が離せない生活を送っている。実際、電車に乗ると、半数以上の人が携帯電話の画面を覗き込み、メールかゲームに興じている。

 これは、もはや②当たり前になってしまった日常風景なのだが、少し引いて見てみると、ある種異様な光景でもある。彼らは、本当に「現実世界」を生きているのだろうか。かりそめの(注4)身体はそこにあったとしても、意識そのものはすでに③仮想現実社会で暮らしているのではないのか。そう感じてしまうのは、僕だけではないような気がする。

(中略)

 日常的なコミュニケーションの多くも、今では対面ではなく、メールや電話で行うことが当たり前になっている。実際には一度も会うことなく、メールだけでことが済んでしまう相手だってめずらしくなくなってきている。

 いやむしろ、メール中心の、家庭現実的なコミュニケーションに慣れてしまうと、実際に対面して行うコミュニケーションが億劫(注5)になったり、不快になったりするといった経験をした人も少なくないはずだ。

 メールが中心となるコミュニケーションの相手は、もちろん現実の存在ではなく、情報としての対象である。つまり、おもしろいことに、ぼくらは現実の存在(対面する相手)よりも情報としての対象(メールでの相手)のほうに親近感を持ったり、愛着を覚えたりしているということなのだ。

(相原博之『キャラ化するニッポン』講談社現代新書による)


(注1)書きたてる:新聞や雑誌などが盛んに書く

(注2)短絡的:本質を考えずに原因と結果を結びつけること

(注3)抜き差しならない:どうすることもできない

(注4)かりそめの:本当ではない一時的な

(注5)億劫:面倒で気が進まない

1。 ①どうやらそうではないらしいとあるが、そうとは何を指しているか。

2。 ②当たり前になってしまった日常風景の例として正しいものはどれか。

3。 ここでの③仮想現実社会の説明として正しくないものはどれか。

4。 本文の内容と合っているものはどれか。