互いに視線を向けるという場面では、サルと人間には大きな違いがある。
 サルにとって相手をじっと見つめるのは軽い威嚇(いかく)になり、強いサルの特権である。弱いサルは、見つめられたら決して見返してはいけない。挑戦したとみなされて攻撃を受ける羽目になるからだ。強いサルの視線を避けて横や下を向くか、歯をむき出して笑ったような表情をすればいい。
 強いサルは自分の優位性を確認できれば、それ以上威嚇(いかく)することはない。ただ、自分が強いサルの関心を引きそうな食物に手をかけていたら、すぐさまその場を退いたほうがいいだろう。
 競合する場面では、弱いサルが強いサルに譲るように誰もが期待しているからだ。それがサル社会のルールである。
 人間ではサルとは違ったことが起こる。時折「眼(注1)をつけただろう」とすごまれる(注2)ことがあるが、見つめるという行為はふつう威嚇(いかく)にはつながらない。むしろ、相手に積極的な関心を向けたり、許容や忠告、愛の表現であったりする。
 視線の向け方にも作法があり、目をかっと見開いたり、細めたり、丸くしたり、四角にしたり、横目や流し目、上目づかいや見下すなど、多種多様である。その作法は文化によっても、性別や年齢、身分や服装によっても違ってくる。それは人間にとって、顔と顔とを合わせ、視線を交わすことが重要なコミュニケーションであるからだ。
 実際、言葉が発達した私たちの社会でも、重要なことは直接会って決めることが多いし、面接は人物を確かめる手段として重用されている。
(中略)
 ところが、現代の情報機器はこの視線の作法をあまり使わなくてもすむ社会をつくってしまった。 人々は毎日インターネットやメールをのぞくために多くの時間を使っている。家族や親しい仲間とじっくり顔を合わせて、対話や協同作業を楽しむ時間を失いつつある。
 その結果、多様な視線の作法を忘れ、他人と視線を合わせることが億劫(おっくう)となっているのではないだろうか。だが、言葉は視線のコミュニケーションを代替できない。
 言葉は意味を、視線は感情を伝える。むしろ意味があいまいであるからこそ、視線は暖かくも冷たくもなりうるし、そこで受けた印象を後で変えることもできるのである。
 言葉は視覚で得た映像や画像を意味として切り取る。そして文字はその言葉を化石化する装置である。それが持ち運び可能な効率的な手段だからこそ、人間は世界を言葉や文字で塗り替えた。だがそのおかげで、私たちは豊かな心を育んできた視線による対面の世界を忘れようとしている。 それは皮肉 にもサルのような視線を合わせない、優劣社会に移行することにつながるのではないか、と私は不安に思っている。
(注1)眼をつける:相手の顔をにらむ
(注2) すごむ:脅すような態度をとる

1。 (59)筆者によると、サル社会のルールとは何か。

2。 (60) サルとは違ったこととは何か。

3。 (61) 筆者は、視線の作法をどのように

4。 (62) 筆者の考えに合うものはどれか。