(2)
 芸術作品が私たちにもたらすものは、感動ばかりではない。驚きとか困惑、ときに不快感やイライラ感だったりする。それまでだれも思いつかなかったような形状や色彩や音は、私たちをさまざまに揺さぶる。
 私たちは慣れ親しんだ世界に浸っているとき心地よさに包まれているが、そこから新しいものは生まれない。そういう意味で穏やかで心地よい文化は、保守的で現状肯定的であり、創造性やエネルギーにとぼしい。だからこそ、あえて不安とか狂気、驚きといった刺激をもたらしてくれる①天邪鬼(注1)としての芸術が社会には必要なのである。
 そういう意味で芸術は安定した穏やかなものを否定するところで生まれる。そうした芸術が誕生すると、社会は大きな包摂性(注2)をもっているから、トゲトゲしたものもくるんで呑(の)み込んでしまう。すると、また異質な刺激因子としての芸術が必要になってくる。
 ②その繰り返しによって、社会と文化のエネルギーが維持されるのではないか。
(中略)
 そうした芸術の天邪鬼性は、活力よりも穏やかさが優勢になりがちな成熟社会においてはより重要である。しかも、いまは昔とちがって世の中の変化のサイクルがどんどん短くなっており、これは芸術を生み出す側に大きな変化が求められていることを意味している。
 なぜなら時代の変化に合わそうとすると、必然的に次々と作品を世に出さなければならず、個々の作品の質を高めることがむずかしくなる。質を高めて完成域に近づいたときには、もう時代は次のサイクルに入っていて、次の作品に取りかからなくてはならない。
(注1)天邪鬼:ここでは、逆らったり否定したりするようなもの
(注2)包摂性:中に包み込む性質

1。 (53)筆者によると、①天邪鬼としての芸術が社会に必要なのはなぜか

2。 (54)②その繰り返しとあるが、何を繰り返すのか。

3。 (55)筆者によると、いまの芸術家はどのような状況に置かれているか。