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ウェブ時代に突入して、私たちの生活には、世界中のありとあらゆる情報が溢れかえることとなった。その量は膨大で、しかも、時間とともに流れ去ることもなく、データとして刻々と蓄えられ続けている。一方で、私たちの毎日はといえば、相も変わらず24時間しかなく、寿命は80年程度だ。どうやったって、そのすべてを網羅することなどできない。
私たちは、仕方なく、どんな情報とも、どんな言葉とも、忙しなく
(注1)、広く浅いつきあいをするようになって、ふと我に返ると、自分は果たして、本当に、以前よりも、世間や人間に対する理解が深くなっているのだろうかと、不安を感じるようになっている。そういう時代に、小説は、まさしく
「小さく説く」のである。
この広大無辺
(注2)で、複雑極まりない世の中を、そして、そこに生きる人間の心の奥底を、誰の手のひらにでも収まるほどのコンパクトなサイズに圧縮して、濃密な時間とともに体験させてくれる。それが、小説だ。
確かに小説は、絵や彫刻のように、一目で見ることのできる物体ではない。ある一定量の記号の連なりである以上、時間をかけて、前から順番に最後まで辿っていかなければならない。しかし、その間、小説は絶えず、読者に語りかけ、読者に耳を貸し、読者の手を引き、読者と一緒に感じ、一緒に考える。それは、途方
(注3)に暮れるような情報の海を泳ぎ回るのとは、まったく別の興奮を与えてくれるはずだ。
(平野啓一郎『小説の読み方—感想が語れる着眼点』による)
(注1) 忙しなく:ここでは、時間に追い立てられるように
(注2) 広大無辺で:限りなく広くて
(注3) 途方に暮れる:どうしたらよいかわからなくなる