以下は、小説家が書いたエッセイである。

十人十色


 マニュアルというものが、この世には存在する。機械を買った場合には、これを読む。書かれてある通りに動かないと困る。ビデオの再生ボタンを押したのに、録画が始まってはたまらない。ところが、生き物はそうはいかない。あちらに通用したことが、(41) 。うちで、ねこを飼い始めた当座は、何も分からなかった。吐いたりすると、それだけでびっくりしてしまった。あわてて、ねこを飼っている人に電話した。一番にかけたところが留守だと、ますます、動揺する。結局、関西の知り合いにまでかけて、「心配ありませんよ。ねこは吐くものですよ」という言葉をいただき、やっと安心。こんな具合だった。
 さて、(42) 時に、当然のことながら「ねこの飼い方」の本も読んだ。マニュアルである。なるほど――と思えることが書いてある。中でも納得したのが、(43) 。――「動物にとって、用足ししている(注1)時は、最も無防備な状態(注2)です。襲われたら大ピンチ。その最中、人に近づかれることを、ねこはとても嫌います。飼い主は、離れるようにし、のびのびとした気分でさせてやりましょう」これは頷ける。そこで、ゆずが―うちのねこの名前はゆずという―そうする時は遠慮していた。
 (44) 。朝、ねこトイレ(注3)の砂をかきまわし、汚れ物を取り始めると、「ご苦労」というように、ゆずがやって来る。そして、まだトイレに手を入れているのに、「どけどけ」というように中に入ってくる。そして、足を踏ん張り、―行うのだ。これ見よがしに(注4)
 あの説得力のあるマニュアルは、一体全体、何だったのか。なるほど、生きている物には
 個性があると、あらためて (45) 。

(北村薫『書かずにはいられない―北村薫のエッセイ』による)


(注1) 用足ししている:大便や小便をしている
(注2) 無防備な状態:危険に備えていない様子
(注3) ねこトイレ:箱の底に砂などを敷いた、ねこ用のトイレ
(注4) これ見よがしに:自慢げに見せつけるように

1。 (41)

2。 (42)

3。 (43)

4。 (44)

5。 (45)