視覚や聴覚などの情報処理においては、脳の働きの個人差は比較的少ない。丸いものを提示すれば、脳はそれを丸いものとして認識する。丸いものを提示した時に、それを「丸」と認識する人と「三角」と認識する人が相半ばする(注1)ということはあり得ない。同様に、あるピッチの音を聴いた時に、その情報処理に個人差はあまり見られない。
 その一方で、ある事象に対する感情の反応においては、個人によるばらつきが大きくなるのが通例(注2)である。同じものを前にしても、全ての人がそれを好きだと感じたり、逆に全ての人がそれを嫌いだと思うとは限らない。ある人が好きだと感じるものを、別の人が嫌いだと思うのはごく普通のことである。感情においては、脳の反応に大きな個人差が見られるのである。
そもそも、感情の働きとは何であろうか?ひと昔前には、感情とはある特定の刺激に対する類型的な(注3)反応であると考えられてきた。大脳新皮質(注4)が担っている理性の働きが環境の変化に応じて柔軟な情報処理を行うのに対して、「爬虫類の脳」とも呼ばれる古い脳の部位が重要な役割を担う感情は、一定の決まり切った反応をするものと思われていたのである。
 しかし、近年の脳科学の発達により、感情は、むしろ生きる上で避けることのできない不確実性に対する適応戦略であることが明らかになってきた。理性では割り切れない、結果がどうなるかわからないような生の状況において、それでも判断し、決断することを支えるための情報処理のメカニズムとして、感情は存在していると考えられるに至ったのである。
 (中略)
 感情が不確実性に対する適応であると考えると、その反応において個人差が生じるのは自然なことである。
 不確実な状況の下では、とるべき選択肢の「正解」は一つとは限らないからである。
 さまざまな人々が異なる戦略をとり、全体としてバラエティが増したほうが、人間という生物種全体としては、むしろ適応的である。生死にかかわるような状況においては、たとえ、ある選択をした人が不幸にして死んでしまったとしても、別の選択をした人が生きのびれば生物種としては存続できるからである。全体が同じ選択肢を選んでしまっては、環境の変化や予想のできない事態に対して脆弱になって(注5)しまう。
 他人が異なる感情の反応を見せることを許容することの倫理的基礎は、まさにこの点にある。他人が自分と異なる感情の中にあることに反発するのは自然な心の動きであるが、とらわれて(注6)はいけない。自他の差異に対して許容的であることが、すぐれて生命哲学上の原理にかなっているのである。

(茂木健一郎「疾走する精神」による)


(注1) 相半ばする:同じくらいである
(注2) 通例:一般的
(注3) 類型的な:型どおりの
(注4) 大脳新皮質:脳の一部分
(注5) 脆弱になる:もろくて弱くなる
(注6) とらわれる:ここでは、ある考えに縛られる

1。 (59)知覚の情報処理と感情の反応について、筆者はどのように述べているか。

2。 (60)近年、感情の働きはどのようなものだと考えられるようになったか。

3。 (61)個人差が生じることがどのようなことにつながるか。 

4。 (62)筆者の考えに合うのはどれか。