以下は、歴史学者について、歴史小説家との比較を中心に書かれた文章である。
歴史学では、史実の究明にはもちろんのこと、新しい歴史像を提示する時にも史料
(注1)的根拠が必要です。そして、この史料的根拠を基盤とするがゆえに、歴史学者の歴史観は、相互に批判可能なものです。これは、物理や化学といった自然科学の世界で新理論を展開する場合に、その論拠、論理を他の学者にも検証可能な形で提示しなければならないことと同様です。
しかし、小説にこうした論証を求めるのは無理というものです。最近は小説家に歴史研究者同様の姿勢を求める向きもあるようですが、これは筋違いとしか思えません。やはり、歴史研究と歴史小説は、そもそも目的も手段も違うものなもだとしか言いようがないのです。
また、あるいは、次のような話が参考になるでしょうか。
ある時、理学部の天文学
(注2)の先生に、「どうして彗星や小惑星などの新天体を発見する人には、アマチュアの天文家が多いのですか」と聞いたことがありました。新聞でも報じられるような天体現象の発見に、意外と
専門研究者が少ないことが気になっていたからです。
すると、天文学の先生は、「天文学の先端では、彗星などの発見よりは、大きな電波望遠鏡を使って、ある一定の方向から地球に届く宇宙からの電波情報を継続的に受け取り、その数値の分析によって宇宙の大きさを推測したり、宇宙の成り立ちを究明したりしているのです」と教えてくれました。(中略)
歴史学者と歴史小説家の違いも、これに近いものがあります。歴史小説家を歴史のアマチュアとするつもりはありませんが、同じく歴史を扱いながらも、その立ち位置は違うものだと言えるでしょう。
歴史小説では、誰もがよく知っている人物や事件をとりあげて小説にすることが多いようですが、歴史研究ではむしろ誰も知らないような人物や事件を入り口として史実を究明することがほとんどです。また、政争に誰がいかにして勝ったかというような政治のダイナミックな人間の動きよりは、制度的な政治システムの変遷を追究する方が研究手法としては主流です。そのため、歴史学者が世間一般の歴史ファンを驚かせるような新説を立てる、というようなことは、稀なこととなるのです。
もちろん、天文学者であれば研究機関に属していようが星に無関心でないのと同様に、歴史研究者もメジャーな歴史トピックに関心がないわけではありません。しかし、一見地味な事例研究を積み重ねることによって、それまでの通説を修正する新しい視点が見いだされていくことを、研究者は知っているのです。つまり、一足飛びに
(注3)通説を覆そうとして、特定の視点から史料を読むような真似
(注4)は禁物なのです。
(山本博文『歴史をつかむ技法』による)
(注1)史料:歴史を研究するための文献や遺物。
(注2)天文学:宇宙と天体について研究する学問。
(注3)一足飛びに:ここでは、手順を無視して一気に。
(注4)真似:ここでは、行動。