(1)
 私は、一人の作曲家として、色々な機会に、自分の作曲について語ってきた。しかしそれは、私自身が、自分の作曲についてよく知っている、ということを意味するわけではない。私の作曲には、言葉で説明できるような組織的な方法論はない。作曲するときの私は、単に、感覚に頼って、直観的に「これが好い」と納得できる音の連なりを探し続ける。 そして、「ここが曲の終わりだ」と感じるところにいたったとき、一つの曲の出来上がりとなる。ただそれだけである。
 「これがよい」あるいは、「ここが曲の終わりだ」という感覚的な判断の根拠は、説明できない。そして、①曲が何であるのかについても、よく分からないのである。
 もっとも、私は、自分の作曲について本当に何も知らないというわけではない。そもそも、どうやって何を作るかということを全く知らずに物を作ることは、不可能である。例えば、もし、ガラスのことも、そして、花瓶というものがどのようなものかも知らなければ、ガラスの花瓶を作ることはできない。同様に、作曲の場合にも、素材である音と、その音の構成の仕方について知らなければ、そしてされに、音楽というものがどのようなものなのかを知らなければ、曲を作ることなどできない。作曲をするからには、作曲者は、当然、それらにについて一応知っている。
(中略)
 作曲は、必ず、何らかの伝統における「基本的な」知識を前提としている。だが、その「基本的な」知識をそのまま(大抵の場合、無意識的に)受け入れて、その範囲で作曲する「保守的な」作曲家達がいる一方で、前衛主義に代表されるような、新たな音楽の可能性を求める作曲家達は、自らが出発点とした伝統における「基本的な」知識の外に踏み出そうとする。そして、この伝統からの踏み出し一あるいは、「逸脱」と言うべきかもしれない一は、常に、実験的な性質を帯びる。つまり、非伝統的な素材を用いることによって、あるいは、非伝統的な音構成法を試みることによって、伝統に由来する「基本的な」知識が告げる音楽というもののイメージから逸脱した未知のものが産み出される可能性があり、そして、この未知なるものを相変わらず「音楽」と呼ぶとしても、それがどのような意義と価値をもつ音楽なのかは、分らないのである。その意義と価値を判断するためには、そこに生まれてきた音楽そのものを吟味してみるほかはない。
 私が、自分自身の作曲について語り得ることは、まさにこのこと、つまり、自らが行った実験的な試みの結果として産み出された音楽についての吟味であり、言い換えれば、自分が行ったこととその結果についての自分自身による解釈なのである。

(近藤譲「音楽という謎」による)



1。 (59)①そのようにして作ったとあるが、どのように作ったのか。

2。 (60)筆者は、ガラスの花瓶の例を挙げて何を言おうとしているのか。

3。 (61)新たな音楽の可能性を求める作曲家達の音楽とは、どのようなものか。

4。 (62)筆者によると、自分自身の作曲について語れることはどのようなことか。