(2)
 自分の泣いているときの表情や笑ったときの表情をまともに見たことのある人はまずない。写真やビデオになれば自然な笑いがおさめられることもあるかもしれないがそこに映っているのは過去のそれであっていま内側から生きている感情と重なり合うものではない。その点鏡ならばそれを同時的に捉えられそうにもみえる。しかしじっさいには自分が笑っているときその笑っている自分の顔を見たとたんもはや笑いつづけられなくてさっと笑いがさめてしまうものである。泣いているときも同じである。
(中略)
 自分の表情を視覚的に捉えることにはそもそも無理がある。他方他者の表情を内的に捉えるこ とも私たちが他者の身体を内側から生きることができない以上不可能である。ならば他者の表情の理解はほんらい不可能なことだということになるはずだが私たちは日頃から表情の理解が不可能だとか困難だとかほとんど思いもしない。現に私たちは他者のわずかな表情の変化にも敏感であるしその表情の理解を土台にすることで人間関係の基本部分を成り立たせている。
 表情はほぼ人類に共通であって微妙な表情は別として人種がちがってもそれを読み間違うことはまずない。含み笑いとか苦笑いあるいは愛想笑いとかいったものだと同じく笑いでも文化差があって読み間違うことがあるかもしれないが典型的な表情に関してはまず間違わない。そうだとすれば類としての人間のなかに表情を通して人どうしわかり合うメカニズムが個の単位を越えて存在するものと考えねばならない。

(浜田寿美男『「私」とは何か』による)

1。 (53)いま内側から生きている感情と重なり合う表情について筆者はどのように考えているか。

2。 (54)他者の表情を理解することについて筆者はどのように考えているか。

3。 (55)筆者の考えに合うものはどれか。