(3)
 ぼくらは、自由という言葉にある重さを感じる。自由と勝手とは似て非なるもので、自由 を与えられると、その尊さ故にどう扱っていいかと緊張するのである。そのように教えられ たわけではないのだが、その解釈する感性が尐なくとも備わっていたということだろう。日常の仕事のことでもいい、ちょっと思い返すと、①それが実感できる
 ②自由におやり下さいと言われると、無邪気に、あるいは無責任に、これは楽だと思える だろうか。自由におやり下さいの自由は、 あなたの思うままお好きな世界を構築して結構ですという、 全幅(注1)の信頼や神の如き好意ではないのである。
 もっとつき放している。お手並(注2)拝見という底意地の悪さもある。だから、言われ た側の本心としては、自由にやらせていただけるのですかと、感動のリアクション(注3)を示しながら、実は大して期待していないな、要するにあてにされていないなと思ったり するのである。
 それもこれも、自由という言葉の持つ重さと、それを使いこなす困難さを知っているか らである。だから、ぼくらは若い時、自由に書いて下さい、自由に解釈して下さい、自由 に生きて下さいと言われると、捨てられたような戦慄を覚えた(注4)ものである。 自由に善 玉、制約は悪玉だと伝えられているが、制約を示された方が人は安心して生きられるとこ ろもあるのである。
( 中略)
 ぼくは、自由を理解し、自由を享受し、自由を主張するためには、無免許であってはな らないと思っている。少なくとも許されることと、許されざることの判別が可能な人だけ に交付されるべきなのである。

(阿久悠『清らかな献世一言葉を失くした日本人へ』による)


(注1)全幅:最大限
(注2)手並:技量
(注3) リアクション:反他
(注4)戦慄を覚える:ここでは、ひどく恐ろしいと感じる

1。 (56)①それが実感できるとあるが、何が実感できるのか。

2。 (57)②自由におやり下さいと言われると

3。 (58)この文章で筆者が最も言いたいことは何か。