音楽に限ったことではないが、芸術、文化などの名で呼ばれるものはどうしても、現実の政治経済や社会生活に関わることがらとは切り離されたものと考えられることが多く、また、そうであるがゆえに価値を持つものとされてきたと言ったほうが、よいだろう。近年のように財政状況が悪化するなど、現実生活をめぐる状況が深刻になってくると、こういうものはしばしば不要不急な「無駄」として切り捨てられそうになる。他方で、荒れた世の中をしばし
(注1)忘れるためのオアシスのような場所としての意義が叫ばれるようになったりもするのだが、いずれにしても、その音楽を研 究している立場のわれわれはしばしば、「この世知辛い
(注2)世の中で、 そんなことをやっていられるというのはうらやましいことです」などと言われ、①
何とも複雑な心境になるのである。
だが、コペルニクス的転回を遂げた
(注3)と言っても、過言ではない近年の文化研究の進展の中で、政治や社会の話と切り離して文化が論じられるなどということが幻想である、というより、そのような幻想自体、すでに一定の政治的社会的イデオロギーの刻印を帯びた
(注4)ものにほかならなかったということが明らかにされてきた。いまや、音楽研究者の中にも、政治や社会から切り離された純粋な「音楽そのもの」がどこかに宙
(注5)に浮いたような形で存在しているなどと素朴に信じているような人は、誰もいないだろう。
音楽研究に関わる人々の意識も代わり、研究の内実も大きく変わってきているにも関わらず、むしろ、音楽研究の世 界の外側にいる人のほうが、音楽を「純粋」な形で囲い込みたがっているように思われるのは②
皮肉なことだ。社会科学の最先端で議論をしている人が、音楽の話になったとたんに、30年前の音楽研究に戻ったかのような古典的なデータや図式でものを考えていることが明らかになるような場面に、これまで、何度か出会ってきた。歴史学者などが中心になって、編んだ領域横断的な論集などで、音楽の部分だけはひどく浮世離れした
(注6)古めかしい論文が掲載されており、音楽研究の最近の成果と大きく切り離してしまっているようなこともしばしばある。ここ十数年で、音楽研究 者の目に映る音楽の世界もずいぶんと変わっているのに、われわれの発信が不足しているために、その面白さを十分に 伝え切れていない。そんな気がするのである。
(渡辺裕『音楽は社会を映す一考える耳「再論」』による)
(注1)しばし:しばらく
(注2)世知辛い:暮らしにくい
(注3) コペルニクス的転回を遂げる: 考え方がこれまでと根本的に変わる
(注4)刻印を帯びる:ここでは、影響をうける。
(注5)宙:空中
(注6)浮き世離れした:現実と懸け離れた。