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多くの人は、個性の持ち主にあこがれて、できれば見習いたいものだと思いながら、実は、一方で「人並み」である ことをひそかに求めてもいる。「ひと」からはずれていたり遅れていたりすることは、彼らを極度に不安にする。「同じ」思いを抱いていたことを発見することは、大きな安心を与えるはずであるから。「同じ」思いの通ずる仲間が見つかると、すぐにでも群れようとする。①
そういう人間の傾向は、別に、日本人にだけ備わったものというわけでもなく、ほとんど、本能的なものとして、多かれ少なかれ誰もが、抱えている要素であるといってよい。
にもかわらず凡庸さ
(注1)は、表向き、なぜこれほど忌み嫌われる
(注2)のか。それは、おそらく、人間というものの大多数が凡庸な生を生きるほかなく、自分の未来もまたその限界のなかにあることをうすうす知っているのだが、 そのことをそう決め付けられることは、自分の生を希望のない確定的なイメージに塗り込めてしまうことであり、それは②
個としての価値を否定されてしまうことにつながると感じられるからである。
生きる意欲が現にあるのに、お前の未来はこのとおり当たり前のものでしかないと規定されることは、未来に向かうものとしてある「生の意欲」の本質的条件を根こそぎにしてしまう。自らが、有限な存在であることを大筋ではわきまえつつ、しかもその範囲内に未知の部分を必ずいくらかは残しておく。そこに自らが、個であることの確証をかろうじて求めようとするのだ。
(小浜逸郎『この国はなぜさびしいのか「物の指し」を失った日本人』による)
(注1)凡庸さ:ここでは、人並み、平凡であること。
(注2)忌み嫌う:ひどく嫌う。