自然は多種多様の生物群が存在することで、それなりの安定を維持している。そのなかの一種ないし数種を撲滅することは、とりもなおさず全体のバランスをくずす結果になる。複雑な形の自然石かつみかさなってできた石垣から、一個ないし数個の石をひきぬいたらどうなるか。影響はたちまち全体におよび、石垣そのものの大規模な崩壊をおこすにちがいない。ちょうどそれとおなじである。しかも自然界の場合、構成それ自体が複雑であるゆえに、影響もいっぺんには表面化しない。ある部分はたちどころ
(注1)に、べつの部分は長期間をおいたのちに、被害の進行をあらわにしてくる。人間自身の予想もしなかった個所へ、①
意表をついた連鎖反応の結果がでてくるのである。Aなる
(注2)害虫を除去する目的で、ある薬剤が使用されたとしよう。その目的はたっせられて、Bなる作物が虫害をまぬかれた。しかしその結果、おなじくAによって食い殺されていたCやDの種属が、抑制因子をとりのけられて爆発的に増加し、あらたな害虫となってBにおそいかかる。こういった例が多数あるのである。
殺虫・殺菌の効能をもつ化学薬品が、いったん開発されてこのかたというもの、人間は文字どおりなりふり
(注3)かまわず、ひたすらそれへの依存度を増し、つまり量質ともに強大化する方向へっっぱしった。なぜそのようにしなければならなかったのか。最近の日本では、②
このことをもいわゆる公害の一種にふくめ、製薬資本の営利主義――すなわち企業の利益のため不必要な薬品を売りまくって乱用をすすめたことが、非難のまとになっている。しかしこれだけで片づけられるほど、事態の本質は単純でないのだ。上のような皮相
(注4)的見解でわりきるには、現在の状況はあまりに絶望的である。すでに③
最初の出発点からして、人間の文明それ自体のなかに、かく
(注5)ならざるをえない必然性がやど
(注6)されていた。一企業の責任に帰するには、悲劇の根はいささか深すぎる。
人間が今日のごとく高度文明をきずきえたのは、採集経済から脱して、牧畜さらに農耕という生産手段を発明したからである。それは換言すると、ある特定の土地を、牧場あるいは田畑として使用することである。さらに換言すると、人間の利用目的にかなう家畜・作物によって、それらの土地を独占させることでもある。ほんらいならばそこの土地には、家畜・作物いがいの各種生物が、当然のこととして棲息
(注7)していた。人間はそれらの生物群にたいし、害獣・害鳥・害虫あるいは雑草といった汚名を一方的にかぶせ、強引に排除する手段にでた。こうして自然界のバランスがくずれた。いわゆる公害の起原は、工業とともにおきたのではなく、遠く牧畜ないし農耕のはじまりにさかのぼるのである。
(レ チェル・カーソン著・青樹簗一訳『沈黙の春』一筑波常治の「解説」による)
(注1) たちどころに:たちまち
(注2) ~なる:ここでは、~という
(注3) なりふりかまわず:ここでは、先のことも考えず
(注4) 皮相的:表面的
(注5)かく:このように
(注6)やどす:含む
(注7)棲息する:生きる