(2)
書を読むという行為が、人間の成長や知的能力の向上に必須のものであることを、かつての社会は経験法則的に理解していたのではないだろうか。素読
(注1)などは強制的、修養
(注2)的なものではあるが、読書習慣の形成を何よりも重視する教育メソッド
(注3)であったことは確かである。しかし、①
私たちの世代はどうであろうか。書物というものが映像や音響メデゖゕなどと単純に比較することを許さない必需品であり、読書は基本的な能力であるという確信をいだいてきたものの、近年の社会経済のあり方によって自信を喪いかけていたことは否めないのではなかろうか。
活字以外の表現手段が大きな影響力をもつようになったことを②
「時代の流れ」と呼ぶのはいいが、文化の変容があまりにも急激なこと、あるいは一つの有力な文化が別のものに置き換えられることには予測しがたい弊害を伴う。活字にもいろいろあるが、書物に特有の楽しみを与えてくれる本、思索の喜びをもたらしてくれる本、人生の支えになるような本が相対的に尐なくなったのは、1980年代の半ばごろからで、書店の棚には情報的な本や、映像文化の書籍化をねらった寿命の短いものばかりが目立つようになった。家庭からはスペースの狭さをいいわけに、本棚が姿を消してしまった。
ちょうどそのころから映像文化や活字文化の本質を考えるメデゖゕ論が盛んになったが、いまから思えば従来の活字文化が衰弱した場合にどうなるかという洞察力において、いささか欠けるところがなかっただろうか。
(紀田順一郎『読書三到――新時代の「読む・引く・考える」』による)
(注1) 素読:ここでは、意味を考えずに、声を出して読むこと
(注2) 修養:学問を修め人格を高めること
(注3) メソッド:方法