3)
 人間は、所詮、時代の子であり、環境の子である。わたしたちの認識は、自分の生きてきた時代や環境に大きく左右される。ある意味、閉じ込められているといってもいい。認識できる「世界」はきわめて限定的なのであり、時代や環境の制約によって、認識の鋳型(注1)ができてしまうから、場合によっては、大きく歪められた「世界」像しか見えなくなることもある。わたしたちは、①そういう宿命を背負っているのである。
 だから、「世界を知る」といいつつ、実は、偏狭な認識の鋳型で「世界」をくり貫いて(注2)いるだけということが生じたりする。鋳型が同じであるかぎり、断片的な情報をいくら集めたところで、「世界」の認識は何も変わらない。固まった世界認識をもつことは、「世界」が大きく変化する状況では非常に危険なことである。
 一方で、これほど情報環境が発達したにもかかわらず、②「世界を知る」ことがますます困難になったと感じている人も増加している。果てしなく茫漠(注3)と広がり、しかも絶えず激動する「世界」が、手持ちの世界認識ではさっぱり見えなくなってきているからだ。たしかに、ただ漫然とメディアの情報を眺めているだけでは激流に呑み込まれてしまう。
 いまこそ、時代や環境の制約を乗り越えて、「世界を知る力」を高めることが痛切に求められているのではないか。
 もちろん、時代や環境の制約から完全に自由になることはない。しかし、凝り固まった認識の鋳型をほぐし、世界認識をできるだけ柔らかく広げ、自分たちが背負っているものの見方や考え方の限界がどこにあるのか、しっかりとらえ直すことはできるはずだ。

(寺島実郎『世界を知る力』による)


(注1)鋳型:ここでは、画一化した型
(注2)くり貫いて:ここでは、切り取って
(注3)茫漠:広がりがあり過ぎて、はっきりしない様子

1。 (56)①そういう宿命とはどういう意味か。

2。 (57)②「世界を知る」ことがますます困難になったのはなぜか。

3。 (58)筆者は、「世界を知る力」を高めるためにできることは何だと考えているか。