(2)
 おとなは子どもに「嘘つきは泥棒のはじまり」として正直であることを強要しますが、弱者は苦しい嘘をついてでも自らの尊厳を守ろうとします。
 論理的に正しいことを理性と呼ぶとすれば、理性的にあることができるのは強者だからです。強者はそれゆえに理性的に弱者の過ちを責めようとしますが、弱者の立場からいえば、それは何の意味も持たないことが多いのです。弱者のする謝罪とは、劣勢を一時的に解消する手続きや儀式にすぎないのです。

(吉田脩二『ヒトとサルのあいだ--精神はいつ生まれたのか』による

1。 (47)筆者は、弱者をどのようにとらえているか。