心は目に見えない。だから客観的に知ることはできない。ならば、心とか意識なんて面倒なことを考えるよりも、目で見える、定規で測れるものだけを考えることにしよう。そう考える人がいても不思議ではない。行動主義
(注1)心理学と呼ばれるこの流派では、サルやネズミなどにレバー
(注2)押しなどの行動を訓練し、その行動から動物の心を探っていく。しかし動物に「まずはレバーを押してみてください」と頼むわけにはいかない。例えば、初めて実験室につれてこられたサルは、そもそもレバーにさえ気づかないからだ。では、サルにどうやってレバーを押させるのか?ポイントは二つ。ひたすら待つ。そして尐しずつ目標に近づける。
例えば、サルが尐しでもチラッとレバーを見たとする。そこですかさずエサを与える。これを何度か繰り返すと、サルの注意が次第にレバーに向いてくる。ここでいったんエサやりを止める。するとサルは、うろつきまわったりキョロキョロしたり、色々なことを試し始める。ここが我慢のしどころ。試行錯誤の中、サルの手がレバーに伸びるのをじっと待つ。そして手が尐しでも伸びれば、すかさずエサを与える。こうして、適切なタイミングでエサをやりながら、尐しずつ目標の行動に近づけていくのである。
私はこのやり方を、大学院生の頃、助手の先生に教わった。それは教科書に書いてあるとおりのことだった。が、実際にやってみると、それは衝撃の体験だった。エサやりのボタンを右手に持ち、白黒のモニターごしに、サルの行動をじっと見つめる。 私はサルに念じていた。「振り向け、レバーに振り向け」。伝わらない思いを伝えたい。ふいにサルがレバーに近づく。と、すかさず「エサやり」というメッセージを送る。それは紛れもなく
(注3)コミュニケーションであった。この訓練をずっとやっていると、徐々にサルの気持ちがつかめてくる。そして、気持ちがつかめてくると、訓練は格段に早く進む。行動だけを見よといいながら、その実
(注4)、うまく訓練するにはサルの心がつかめていなければならないのだ。心は行動からしかつかめない。しかしそれがつかめたとき、手の中にサルの心があるように思えてくる。
そのとき私は、学問の本当に大事なことは、教科書には書いていないことを知ったのだった。
(金沢創「心体観測 2009年2月8日付朝日新聞日曜版による)
(注 1)行動主義心理学:人間や動物などの行動を観察して研究する学問。
(注 2)レバー:機器を操作するときにつかんで動かす棒。
(注 3)紛れもなく:間違いなく。
(注 4)その実:実際には。