いまはコミュニケーション能力が過剰に求められる時代である。職場でも学校でも、あるいはもっとプライベートな空間でもいい。あらゆる人間関係において、自分の価値を認めてもらうためには高度なコミュニケーション能力が必要とされる。書店に行けばコミュニケーション能力を高めるための自己啓発本があり余るほどでているし、わざわざそのための学校に(4 1 )。
 確かに、いまの産業のあり方をみると、コミュニケーションが富を生み出す経済活動の中心にきていることがわかる。製造業は人件費の安い海外に工場をどんどん移転させ、国内に残っているのは、マネジメントや企画、研究開発、マーケティングといった本社機能的な仕事ばかり。そこでは、組織をまとめあげる、アイディアを出す、交渉する、プレゼンをする、ディスカッションをするといった、高いコミュニケーション能力が必要とされる活動がどうしても物を言う。社会のあり方が、工場中心からコミュニケーション中心へと大きく転換しているのである。
 しかし、コミュニケーション能力が、人びとの価値を決める独占的な尺度になることは、 (42) 。事実、コミュニケーションべたで自己アピールにそれほど長たけ(注1)ていなくても、能力のある人はいっぱいいる。私も大学でゼミを指導していると、ゼミの議論では目立っていてもリポートの出来はそれほどでもない学生や、逆にゼミではおとなしくてもすばらしいリポートを書いてくる学生に頻繁にであう。コミュニケーションの巧みさと本人の能力は必ずしも一致しない。もちろんコミュニケーション能力も人間の能力の一つではある。だから、それが評価基準の一つになることは当然あっていい。 (4 3) 、コミュニケーション能力をめぐる過当(注2)な競争は、人間関係にひずみをももたらすだろう。
 引きこもりは、社会のなかで要求されるコミュニケーション能力があまりに高いため、一度他者とのコミュニケーションにつまずくと、なかなか新たなコミュニケーションに踏み出せなくなってしまうことから生まれる。引きこもりまでいかなくても、周りとのコミュニケーションのなかで自分がまともに相手にされなければ、誰だって心を閉ざしてしまい、内にこもりがちになるだろう。コミュニケーション能力をめぐる競争が激しい社会は、 (4 4) 人にとても冷淡だ。
 また、いじめは、子供たちのコミュニケーション能力の欠如からおきているのではなく、逆に、みんなが空気を読みすぎることで生じるストレスのはけ口を特定の人間に向けることでおきている。こうしたストレスや重圧は、子供に限った問題ではない。空気を壊してはならないという圧力は、人々にコミュニケーション能力をさらに要求するだろう。しかし、それが進めば、社会のなかで同調圧力が強まり、社会そのものが萎縮(注3) (4 5)。

(萱野稔人「私の視点」2009年4月9日付朝日新聞朝刊による)


(注1)長(た)ける:優れている
(注2)過当(かとう)な:適当な程度を超えている
(注3)萎縮(いしゅく)する:元気がなくなる

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