幸福は人生の目標である。それだけに一体どういうものが「幸福」なのか知るのは、それを追及する前提として深刻な 課題であると思う。あるとき、若い人が、私に向かって「幸福というのはあるのか」と深刻そうな顔をして聞いたことがある。
彼は人間の欲望
(注1)というのは無限に続くものであるから、幸福感まではなかなか到達しないのではないかというの だ。なるほどそういえるかもしれない。人間が進歩する動物であるならばなおさらのことだ
(注2)。
でも、私は幸福は存在すると思っている。趣味に例をとっても、ある人は野球することをあげ、他の人達は読書や映画、 音楽とそれぞれに主張する。登山や魚釣りという人もいるだろう。このように趣味は人によってさまざまだが、同様に幸 福についても人によっては考え方がまちまちだ
(注3)と思う。
「幸福とはどのようなもの?」と聞かれたら「裕福
(注4)になること」と答える人もいるのだろう。また、「社会的な地 位に到達する」のを幸福だと考えているかもしれない。逆にそのような裕福とか社会的地位を否定して、「心の豊かな人」 になることが幸福だと思っている人もいると思う。思想や感情、さらには生活様式さえ異なる人間のことだ。幸福につい ての考え方に、差があってもいいのではないか。ただ同じく裕福を主張しても、多くの人の幸福を願って慈善事業に協力 する人もいれば、一方には「がめつい奴」の看板を背負って生きてるような人
(注5)もいる。他人になんといわれようと、 その人はそれで結構幸福なのだ。人間は自分のために生きるのだから、他人に迷惑さえかけなければこれでもいいのである。
しかし、私は
スタートの段階ではそれでもいいが、いつまでもそのままの考えから進歩しないのでは困ると思う。私自身としては、別な生き方をとる。
幸福というものについて、これだといい切れる考えはまだ私も持っていないが、私は「会社での仕事も楽しく、家庭で の生活も楽しい、つまり一日二十四時間を楽しく過ごすこと」が幸福だと思っている。言葉はすこぶる
(注6)平凡だが、この内容は非凡だと自負して
(注7)いる。それと、自分の幸福な状態が「他人の目にも楽しく、心も楽しませる」ものでありたいとも私は思う。
(本田宗一郎『得手に帆あげて』による)
(注1) 欲望:欲しいと強い望む気持ち
(注2) なおさらのことだ:ここでは、ますますそうだといえる
(注3)まちまちだ:それぞれ違っている
(注4) 裕福:金持ち
(注5)「がめつい奴」の看板を背負って生きてるような人:けちで欲張りな人
(注6) すこぶる:非常に
(注7) 自負する:自分自身に自信や誇りを持つ