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 今の若い人は、ある程度完備した科学社会に生まれている。携帯電話もカーナビ(注1)も当たり前になった社会である。発展の過程を見ていない彼らは、どういった原理で それらが機能しているのかを知らない。知らなくても、その恩恵を受けることができる。充電さえしていれば、誰とでもいつでも連絡がつくと信じている。電波がどんなもので、どのような設備によって成り立っているのかを知らない人が多い。十数メートルしか離れて いない場所なのに、携帯電話が通じなくなることがあるなんて、考えてもいないだろう。
 こういった「科学離れ」については、昔から問題意識はあった。だから、子供たち向け に科学を教育するシステムをいろいろな形で模険(注2)してきた。けれども、僕が感じることが一つある。そういう教育をしているのは、科学が好きな人たちだ。だから、口を揃えてこう言う、「科学の楽しさを子供たちに知ってもらいたい」と。この言葉を聞くた びに、「楽しさ」を押しつけている姿勢を感じずにはいられない。
 読書の楽しみを知って もらいたい。スポーツの楽しさを感じてもらいたい。ほかの分野でも、こういった姿勢は 根強い。しかし、科学の場合は、そんな悠長な(注3)問題ではないと思うのだ。読書やスポーツが嫌いな人は、それをしなくても良いだろう。楽しみは、ほかにいくらでもある。しかし,科学を避けることは、この現代に生きていくうえではほとんど無理なのでる。(中略)もはや(注4)、好きとか嫌いで片づけら(注5)れるものではない、ということだ。
(森博嗣『科学的とはどういう意味か』による)
(注1) カーナビ:自分の車の位置を知らせながら道案内する装置
(注2)模索する:探し求める
(注3)悠長な:のんびりした
(注4) もはや:今ではもう
(注5)片づける:済ます

1。 (66)筆者は、今の若者をどのように見ているか

2。 (67)僕が感じることが一つあるとあるが、何を感じているのか

3。 (68)筆者の考えに合っているのはどれか