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以前、高校の教え子たちと話していて①
ふと気づいたことがある。疑問に感じるこ との幅の広さ、疑問の大きさの違いだ。「とうして?」「なぜ?」という問いは、 人間にとって、だれもが持ち合わせるごく当たり前の心のはたらきだと思ってい た。しかし実際には、その広がり、対象範囲が人によってまったく異なるのだ。
(中略)
疑問とは、「興味の現れ」にほかならない
(注1)。なにごとにも無関心な生徒は、会話もじつに淡白
(注2)である。他者とのコミュニケーションにも興味がな い。興味がないから、疑問も起きてこない。私はというと、物心ついたとき
(注3)から好奇心旺盛な
(注4)子どもであった。「このおもちゃの内部はどうなっているんだろう?」そう思ってばらばらに分解しては、元に戻せなくて泣いていたものである。
自分を取り巻く
(注5)社会で起きるあらゆること、たとえば学校の授業で先生が 教えたり、指導する内容にだって「なんで?」と思っていいのだ。会社の上司の指 示にも「なんで?」と思っていい。親の髪にも「なんで?」と思っていい。 問題 は、「なんで?」だけで思考が終わってしまうことだ。②
それではダメだ。とい うのは、「なんで?」だけで終わってしまうと、その後に「反抗」「反感」の感情が心に渦巻いて
(注6)しまうだけだからである。「なんで?」に始まり、そこから「どうしてそうなるの?」「本当にそうなの?」と、自分なりに考えを極めて
(注7)いく作業が大切であり、そこに成長の鍵がある。
(山本博「持続力」による)
(注1) ~にほかならない:ここでは、~と同じだ
(注2)淡白: 「淡泊」とも書く
(注3) 物心ついたとき: 世の中のことが何となく分かってきたとき
(注4) 好奇心旺盛な:いろいろなことに興味を持つ
(注5) 自分を取り巻く: 自分の周りの
(注6) 感情が心に渦巻く: ここでは、感情で心が乱れる
(注7) 考えを極める.ここでは、徹底的に考える