私は⾷べ物については好き嫌いが多いが、研究テーマや⼈間関係についてはあまり好き嫌いがない。ところが、いろいろな⼈と話をしていると、意外に好き嫌いがあるという⼈が多い。この研究は嫌いとか、この⼈は好きじゃないとかよく⽿にする。しかし、どんな研究にも得点を変えれば学ぶところは必ずあるし、⼈間も同様に、悪い⾯もあればいい⾯もある。やって損をするという研究は⾮常にまれであるし、つきあって損をするという⼈間も⾮常に少ない。
科学者や技術者であるなら、発⾒につながるあらゆる可能性にアンテナを伸ばすべきで、そのためには、
好き嫌いがあってはいけないき嫌いがあってはいけないように思う。研究の幅や、発⾒につながる可能性を⼤きく狭めて
(注1)しまう。
ところで、そもそも
(注2)好き嫌いとは何だろうか︖
⾃分の研究分野は、理系であることには間違いない。しかし⾃分でも、理由があって理系の道を選んだとは思えない。単なる偶然の積み重なりの結果なのだ。
「⾃分の好みや得⼿不得⼿
(注3)で選んだ」とあとから⾔うのは、その偶然の選択に何らかの理由を与えないと、あとで悔やむことになるからだと思う。たとえば、理系の道を選んで思ったような成果を上げられなかったとき、「なぜ⽂系の道を選ばなかったのか」と思うような後悔である。違い過去にさかのぼっていちいち後悔していては、その時点の⽬の前の問題に⼒を注げず、前向きに⽣きていくことはできない。
そう考えると、好き嫌いや感情というものは、偶然の積み重なりで進んでいく⼈⽣を⾃分なりに納得するためにあるようなものと⾔えるのではないか。好き嫌いや感情は、無意識のうちに、⾃分を守るために、⾃分を納得させるために、都合よく持つものなのだろう。
感情や好き嫌いは元来
(注4)⼈間に備わっているものであるというのは間違いないが、⼈間は、⼗分な理由がないまま⾏った⾃らの⾏動を、納得し、正当化する
(注5)ためにも、感情や好き嫌いを⽤いる。⼈間は、他の動物にはない、そんな感情や好き嫌いの利⽤⽅法を⾝につけているのかもしれない。
(⽯⿊浩「ロボットとは何か⼀⼈の⼼を映す鏡」講談社による)
(注1)狭める︓狭くする
(注2)そもそも︓もともと
(注3)得⼿不得⼿︓得意不得意
(注4)元来︓初めから
(注5)正当化する︓ここでは、間違っていなかったと思う