( ① )
この言葉は私のオリジナルです。この考え方にたどり着いたのは38歳のときですが、その頃から努力することにたいして抵抗感がなくなり、とても生きやすくなりました。
私たちはなぜか、中学、高校生のころ頃に「努力する姿」を人に見せることをやめてしまいます。試験前のガリ勉
(注1)や運動会前の
徒競走の
猛練習
(注2)などが、人に知られると気恥ずかしくなってしまうのです。 その心境は複雑です。まず結果が出なかったとき「あいつ、あれだけやってダメだった」とバカにされるのを恐れます。結果が出ても「あれだけ準備すれば当然だ」と評価が下がるのを恐れます。他者の評価を気にし始めると、いずれにせよ努力を隠すに越したことはない
(注3)わけです。 それは社会人になっても同じです。得意
技について「よほど努力しているのでしょうね」とほ褒められても、「たいしたことはしていません」と②
自分の努力をわざわざ否定してしまったりするわけです。 しかし、この「
謙遜して努力を隠す対応」はとても危険です。なぜなら、努力しなくていいことへの言い訳になる一方で、努力を「かっこう悪い」とする無意識のバリア
(注4)になりかねないためです。
もちろん、努力すれば、すべてがなんとかなるわけではありませんが、努力なしでは何も始まりません。そのためには「努力」という言葉を生活に積極的に取り入れ、そのプロセスを楽しむ仕組みをつくらなければなりません。
そして、努力を客観視するための測定方法が「時間」なのです。
努力をする、しないはあくまで主観ですが、その分量を時間換算する仕組みを取り入れれば、自分がどこまで努力をしたのか、わかりやすく管理できるようになり、堂々と
(注5)「〇〇については何年間やってきた」と言えます。
例えば、私はよく「文章を書くのが速い」と言われますが、その場合にこう返すのです。「大学卒業から16年間、独立するまで、文章で
顧客(注6)にリポートを作る仕事でしたから速くないと困ります」と。
努力を時間で測定すれば、時間が有限だからこそ、何を努力するのか自分で考え、決めなければいけません。そうすれば、結果はあとからついてくる、という気持ちになれるま魔ほう法の言葉なのです。
(勝間和代「勝間和代の人生を変えるコトバ」2009年4月11日付朝日新聞による)
(注1)ガリ勉:成績を上げるために勉強ばかりする様子
(注2)もう猛練習:一生けん懸めい命練習すること
(注3)隠すに越したことはない:隠したほうがいい
(注4)バリア:障害となるもの
(注5)堂々と:自信のある様子で
(注6)こきゃく顧客:大切な客