大学生や大学をめぐっては「学力低下」で今の大学生は九九さえできない 的な言い方が大学の教師の側からされて久しい(注1)。そういう人たちはえ てして戦前の旧制高校的な「教養」を「教養」の定義(注2)としているのだ が、「まんがを教える大学」の登場はそういう人たちからすれば末期的現象な のかもしれない。まあ、それも一理ある。何しろぼくが「教授」なのだ。
 でもね、四年を現在の大学で過ごした新米教師は思う。大学というのは思 いのほか、可能性に満ちている場所ではないか、と。(中略)
 そしてこれはとても大切なことだが僕は大学で教えるのは(A)のである。
 「論壇」にいたころ(注3)、大学の先生の肩書きがある人とよく対談な どで話すことがあったが、彼らは一様に(注4)、教えることがあまり好きで はなさそうだった。中にはゼミを放り出して国会議員になった人も何人かいた が、まあ、そうなんだろうなとその時話したときの印象からは思う。
 そもそもぼくの大学で、ぼくが教えていて幸福なのは、学生たちが心から「教わりたい」 と思っているからだ。当たり前だが「教わりたい」学生に「教える」ことがお もしろくないはずがないのである。この一点が、多分、ぼくと、大学生の学力 についてただ嘆く(注5)だけの先生たちとの間にある決定的な違いではない か、と感じる。
 東大や京大に行って優秀な成績で卒業して官僚(注6)になりたい、など という特殊な生徒はともかく、たいていの子は高校生の時点で自分の将来像と 受験する大学を深く結びつけて考えることはほとんどしない。「文系」「理 系」に分かれはしても、模試の偏差値(注7)と相談しつつ、入れてくれそう な学部や学科を一通り受験してみる、というのが昔も今も普通であるはずだ。 ぼくが非常勤で教えていたけっこう名門の女子大でさえ、「英文科」(今は名前が変わったけれど)は「英会話をやるのかと思っていたら英語の小説の研究 をするので驚いた」と真顔で言っていた女子大生がいた。(中略)
 高校生の時点での「やりたいこと」と「自分の思い描く将来」そして、そ の二つを結びつける具体的な手段としての「大学で勉強したいこと」、この三つをきちんと結び付けて受験しろ、と高校生に言うのは簡単だが 実際にはとても難しい
(注1) 久しい:長い時間がたっている
(注2) 定義:意味をはっきりと示すこと
(注3) 「論壇」にいたころ:筆者が大学教授になる前に評論家をしてい たころ
(注4) 一様に:全部同じように
(注5) 嘆く:非常に残念がる
(注6) 官僚:国の上級の役人
(注7) 模試の偏差値:模試試験の結果をもとに受験者の能力を示した数 字のこと

1。 (71)(A) に入れるのに最も適当な語彙はどれか。

2。 (72)「実際にはとても難しい」とあるが、筆者はその理由をどう考えているか。

3。 (73)筆者の大学に対する考えにあっているものはどれか。