最近、日本の大相撲の世界では画国出身の力士(注1)がたくさん活躍している。力士の最高地位である「横綱よこづな)」は、現在2名いるが、両者ともモンゴル出身だ。横綱に次ぐ地位である「大関おおぜき)」。さらにその下の「関脇せきわけ)」「小結こむすび)」などの地位にも、モンゴルやブルガリア、エストニア、グルジアなどの出身の力士が名前をつら)ねている。体は小さくても、足腰の強さとスピードで面白い相撲を見せてくれる力士もいれば、大きな体と怪力(注2)を生かし、豪快な(注3)相撲で観客を楽しませてくれる力士もいる。しかし、これだけ外国人力士が活躍し、面白い相撲を見せてくれているにもかかわらず、相撲ファンの中から多く聞かれるのが、「日本人の強い力士がいないと面白くない」という意見だ。相撲評論家や相撲好きだと語る有名人の中にも、同じことを言う人がいる。私は、①これを聞くたびに違和感(注4)を覚える。
 確かに、今、上の地位に日本出身の力士の数が少なくなっているというのは事実だ。しかし、相撲界に入って一生懸命、稽古けいこ)をして地位を上げてきた、というのは、日本出身であろうと外国出身であろうと同じはずだ。文字通り、同じ土俵どひょう)(注5)に立つ「力士」なのに、どうして、「外国人」「日本人」という線引きをするのかが、私にはわからないのだ。相撲を面白くしてくれる力士なら、出身なんてどうでもいいじゃないか。
 もう一つ、よく聞かれるのが、「外国人力士だから日本の相撲は本当にはわからない」という言葉だ。このように「外国人力士」と、人括りひとくく)(注6)にしてしまうのは、実は「日本人はまじめ」とか「アメリカ人は陽気」などと、ステレオタイプ化して(注7)ラベルをはる、ということにも通じているように思う。もし、あなたが違う国の人と話していて、「日本人は冷たい。だから、あなたも冷たいひとですね」と決めてつけられたら、いやだと思うのではないだろうか。
 人括りにして語られると、一見わかりやすい気がして、そう思い込んでしまう。しかし、これは危険。こういう「人括りにして語られていること」に出会ったら、意識的に疑ってかかる。そういうくせをつけておいたほうがいい。
 「外国人力士」と、人括りに考えるのではなく、「朝青龍あさしょうりゅう)」「把瑠都ばると)(注8)と考えるようにしてみよう。人によってはられたラベルは簡単に信じないことだ。
(注1)力士:相撲を取ることを職業としている人
(注2)怪力:ものすごく強い力
(注3)豪快な:力強くて、見ていて気持ちのいい様子
(注4)違和感:「そうじゃない」と賛成できない気持ち、違うと思う気持ち
(注5)土俵:相撲を取る競技所。土を盛りあげた上に、俵で円が作られて
(注6)人括り:違う種類のものも一緒に一つにまとめること
(注7)ステレオタイプ化する:考え方や物の見方を型にはめること。決め付けること
(注8)「朝青龍」「把瑠都」:力士の名前(2010年1月現在)。朝青龍はモンゴル出身、把瑠都はエストニア出身

1。 (71)筆者の考えに合っているものはどれですか。

2。 (72)筆者の考え方に合っているものはどれですか。

3。 (73)この文章で筆者がもっとも言いたいと考えられることは何か。