さて①
現代を生きる人間が立ち向かうべきは、いったいどんな「自然」なのだろう。
人間を生み、育てた原風景は間違いなくあの懐かしい生物的自然だ。この自然に人間は何百万年も生きてきた。けれどもその生物的自然は、残念ながらこの地球にはもう存在しない。その再生も不可能だ(ただし人間という生物がこの地上からいなくなれば、まもなく
豊饒な生物的自然は再生してくるだろうが)。とすれば②
人間的自然しかない。好むと好まざるとにかかわらず、人間は自分自身が創り上げた自然の中でしか生きていけない。けれどもそれは、人を現実から逃避させる情報的自然でも、限りある化石燃料に依存した工業的自然でもない。僕たちの相手は、結局農業的自然しかないと覚悟すべきだ。
人間は自然(環境)の刺激により育つ。与えられる刺激は多様な程良い。何しろ人間のカラダには、何十億年という時間をかけて培われた莫大な潜在能力があるのだから。それを引き出すには、それだけたくさんの刺激が必要なはずだ。
僕は人間が育つには、周りに色々な人間がいて、色々な事物が渦巻いていることが大切だと思っている。特定の人しかいず、特定の物しかなく、特定の事しか起きない世界は、③
人間にとって貧しい。
でも今のこの国ではどこに行っても、④
町や村はある特定の機能を押し付けられている。例えば僕の住む東京都下は、都心で働く人間のねぐらを提供するよう押し付けられている。
農村部でも同じだ。そこでは大都市向けの農作物を作ることがまず要求される。しかもカボチャしか、大根しか作らないというようにはっきりと分業し合っている。そういう所で育つ子供たちは、白菜しか見たことがない、豚の鳴き声しか聞いたことがないという具合に、学ぶことが少ししかない。
地域に与えられた特定の役割を打破することこそ、「地方分権」だと僕は思う。分権とは政治的権限が中央から地方に委譲されることだが、そのことは同時に、これまで中央や国家を支えるためだけだった地方が、何はともあれ自分自身を支えるためのものとして脱皮する、そんなものでなければ意味がない。ともあれ、「混在型の世界」でこそ人はよく育つと、僕は言いたいのである。
(明峯哲夫「べ物自給区」二十五年」
河合年雄・上野千鶴子編「現代日本文化論8欲望と消費」岩波書店)