素晴らしい、短編小説に出会うと、自分だけの
宝物にしたくなる。小さいけれどしっかりした造りの宝石箱にしまい、他の誰も知らない場所に隠しておく。
長編小説だとそうはいかない。それは海や川のように世界に横たわているので、どこかにしまっておけるはずもなく、大勢の人がいつでも自由に眺めたり泳いだり漂ったりできる。
短編小説との関係はもう少し秘密めいているように思う。読書の途中、心打たれるとしばしば私は「何なんだ、これは・・・・・・」と、感動の声を上げるのだが、短編の場合は長編に比べてその声の調子がかすれ気味になる。威勢よくを叩いて叫ぶのではなく、誰かに盗み聞きされないよう用心しながら、自分一人に向かってささやいている。読み終わるとまた宝石箱の中に納め、鍵を掛け、裏庭の片隅にひっそりと湧き出ている泉の底に沈める。
何かの都合で立ち上がれないくらいに疲れ果ててしまった時、海や川のほとりまではとてもたどり着けそうにない時、自分の庭に隠しておいた宝物が役に立つ。泉に手を浸し、箱をすくい上げ、掌にのるほどの小さな世界にも、ちゃんと人間の営みが満ちあふれていることを確かめれば、もうそれだけで安心だ。自分はただ一人荒野に取り残されているのではなく、誰かの
温もりに守られているのだと実感できる。
(小川洋子「博士の本棚」新潮社)