わたしは幼い頃から銭湯せんとう育ちで、ほとんど毎日当たり前のように、知らない裸、たくさんの裸とともに生活の一部分を過ごしてきたのですが、銭湯が好きな反面、いつもなんだか落ち着かない、そわそわしたような気分もありました。女風呂には男児を除いては基本的に女性しかいないのですが、同じ女性という枠組みの中でも、赤ん坊、老女、妊婦、少女、そのときどきの本当に様々な体、が一堂にかいするわけです。
 お湯につかってそんなたくさんの体のバリエイションを眺めていると、赤ん坊を見ては「わたしにもあんなときがあった」と思うし胸のしっかり膨らんだ体を見ては「もうすぐわたしも膨らむのか」と複雑な気分になったし、幼少の頃は想像力が追いつかなかった老女の体を見て、最近はああこれも、順当にいけばわたしの体の未来である、としみじみ感じるようになり、そうすると日々変化する替えの利かない自分の体を抱えながらも、そこにあるたくさんの体がすべて自分の体である、つな)がっているのだと思えてくるから不思議。そんな錯覚というか実感に襲われることがある。あれもわたしだ、これもわたしだ、というように。
 なるほど個人がひとつきりの体でその人生を生き、それを指して「わたし」と言いながらも全部がわたしと感じるゆえに「このわたし」なんてものは個人を超えた大きなものの、やっぱり一瞬間でしかないような気持ちにさせられます。

(川上未映子「世界クッキー」文藝春秋)

1。 (1)筆者は、銭湯せんとう)へ行くとどう感じると言っているか。