多少の誤解を恐れずに言うと、私は、いま、人びとは「支配」というものを求めはじめているのではないかと感じるのです。個人個人が、てんでんばらばら、勝手気ままに行動するのではなく、ある程度の協調や団結のもとに行動しようとしはじめている。そんな動きを感じるのです。人びとのこのような心理の変化が、「リーダーシップ論」の台頭
(注1)と関係しているのではないでしようか。
こ十年くらい、この国のほとんどの組織は、一一企業でも、組合でも、地域共同体でも一固定化された構造を「壊す」、あるいは「解体する」方向に進んできたと思います。「個人の自山」とか「個人の意思」といった言葉がとにかくよしとされ、反対に、
上意下達式(注2)に命令がなされることは「悪」であるかのように見なされてきました。
多くの企業で、「チームワーク」より「個人の能力」が重視され、「権限委譲」とか「個人の裁量」といった言葉が、キーワードのように叫ばれてきました。年功序列型から成果型のシフトが進み、給与の面でも、「固定給」から個人の
出来高による「能力給」に変えるところが続出しました。
この傾向は先進的な組織ほど顕著
(注3)で、がんじがらめの管理をやめて、個人が自由に能力を発揮できる環境作りをしよう、と叫んできました。もちろん、実態はそれほど「個人化」や「自由化」は進んでいなかったかもしれませんが、そうした取り組みが社会の新しいトレンドのようにもてはやされてきました。
このような傾向のために、「リーダーシップ論」も、しばらく
流行らなかったのです。
(中略)
ではなぜ、いまになって「リーダーシップ論」が再燃してきたのでしようか。
その理由の一つは、社会生活においても、プライベートにおいても、極度な情報化などのせいで「個人化」があまりに進みすぎたために、多くの人がどうしていいかわからなくなってきたからではないでしようか。すなわち、自由になりすぎたためにもたらされた「孤独」のせいで、つらくなってきたのです。
(姜尚中「リーダーは半歩前を歩けーー金大中というヒントよ集英社)
(注1)台頭:勢いを持って目立ってくること
(注2)
上意下達式:他位が上の者が、下の者に一方的に注意をやり方
(注3)顕著:はっきり目立つ