わたしは文具店の前を通るたびに、どうしようもない店だなあと思いつつ、なぜかショーウインドウを睨いてしまうのだった。ひょっとしたら今日は何か変化でも起きているかもしれないなどと、あり得ない期待をしていた。
漂流物(注1)でも探すような気分が、いつもしていた。
気落ちするようなことがいくつも重なっていたせいかもしれない。ある日わたしは、
鬱々と
(注2)しながら
件の
(注3)ショーウインドウの前で立ち止まっていた。普段は歩調をゆるめながらく程度だが、その日に限っては動きを止めていた。自分の影が黒々とショーウインドウの内部へ仲び、地球儀
(注4)がひっそりと影の中に
鎮座して
(注5)いる。
とりとめもなく地球儀を観察していた。するとわたしは、①
あること当気づいた。この地球儀はもう長い長いあいだ回転することもなく、いつも同じ側面を陽にさらしつづけてきた。それがために、カラフルな筈の表面は色褪せている。だが、ちょっと注意して見れば、直射日光にはさらされない「向こう側」の半球は新品のときの鮮やかな色彩がそのまま保たれている。視角を変えて覗けば、ちゃんと
片鱗(注6)が
窺えるではないか。
その瞬問、わたしは理由もなく②
救われた気分に包まれたのである。この地球儀を半回転させれば、目の前にはたちまち真っ青な海や色とりどりになり塗り分けられた国々が出現するのである。誰にも知られることなく陰となったまま保持されてきた鮮烈な
(注7)色彩に気づいて、わたしは心を揺さぶられていた。みずみずしく発色している「地球儀の裏側」の秘密に、ショーウィンドウのガラス越しに気づいたのである。
その事火に勇気づけられたわけでもなければ、思い入れをしたわけでもない。が、日常の中から
卒然として
(注8)思いも奇らめ現実が浮かび上がってきたことによって、わたしは
閉塞感(注9)から抜け出していた。スイッチが切り替わったみたいに、感情が変化した。
自分が生きている世界には、見えるものあれば、見えないものもある。気がつくこともあれば、気付くことなく終わってしまうものもある。日の前の
覇気(注10)を欠いた風景は、
倦怠(注11)に満ちた空気の中にも、不意打ちのようにして清新な存在は浮かび出てくるのかもしれない。
三好達治(注12)は「昼」という詩の中で書いている。「すべてが青く澄み渡った正午だ。そして、私の前を自い
矮鶏(注13)の一列が石垣にそって歩いてゐる。ああ時間がこんなにはつきりと見える!」
時間すらがはっきりと見えたように思える明間が、我々にはあり得るのだ。③
そうした事実を人生の一部としてさりげなく織り込むことが出来たとき、我々は幸福の手触りをほんの少しだけでも知っていることになるだろう。
(春日武彦「幸福論ー講談社)
(注1)
漂流物 : 風や波に流されてきたもの
(注2)
鬱々と : 心が睛れないようす
(注3)
件の : 前に述べた。あの
(注4)地球儀 : 地球の模型
(注5)
鎮座して : その場所にあって
(注6)
片鱗 : 一部分
(注7)鮮烈な : 鮮やかではっきりした
(注8)
卒然として : 急に
(注9)
閉塞感 : 閉じてふさがっている感じ
(注10)
覇気 : 積極的に取り組もうという気持ち
(注11)
倦怠 : 飽きていやになること
(注12)三好達治 : 詩人
(注13)
矮鶏 : ニワトリを品種改良して小形にした島