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 群馬県の上野村で暮らすようになって覚えたもののひとつに「待つ」という感覚がある。
たとえばこの村の農業は春を待たなければはじまらない。山菜も、茸も、それが出てくる時期を待たなければけっして手には入らない。 木材として利用するのなら、 木を切るのは、 森の木々が活動を低下させる秋から冬がくるのを待つ必要がある。実に多くのことが、村では「待つ」ことからはじまっていく
 それが、自然とともに働き、暮らすということなのであろう。自然の力を借りようとすれば、自然がつくる、それに適したときがくるのを待たなければならない。といってもそれは、のんびりした暮らし方とばかりもいえないのである。 なぜなら、ときを待つ以上、 逆にそのときを逃してしまったらうまくいかなくなる。田植えのとき、草取りのとき、稲刈りのとき・・・。 村の暮らしには、逃がしてはいけないときがたえずやってくる。
 ときを待つ暮らしにとっては、 人間の意志は万能ではない。 それよりも自然という他者の動きの方が重要で、人間の意志は、 自然の動きをうまく活用する範囲内でしか有効ではない。 だから、自然と結ばれ、ときを待ちながら働き暮らしてきた村の人たちは、人間関係のなかでも同じような感覚を育んだ。人間関係においても自分の一方的な意志は万能ではない。人々の動きを理解しながら、ちょうどよいタイミングがくるのを待って、 そのときを逃さずに働きかけていく。 それが村の人たちの人間関係のつくり方だった。自然との関係のなかで学んだことが人間同士の関係のなかでもいかされていたのである。

(内山節 『戦争という仕事』による)

1。 (55)「待つ」ことからはじまっていくとあるが、 何を待つのか。

2。 (56)筆者によると、村の人たちの人間関係はどのようにつくられたか。