短文
(1)
「練習ではできていなかったのに、試合では技を成功させられた」などという場合に「すごいね」とほめられると、「私は本番に強いから、練習はそこそこにして、本番で勝負をかければいい」と思ってしまいがちです。
本番に強いのは悪いことではありませんが、練習でしっかりできていないことを「本番になればきっとできるだろう」と考えるのは、甘いと言わざるをえません。そのようなスタンスでは、トップクラスの結果を出すことはとうていできないでしょう。
真の実力をつけるには、やはり練習でも常に全力投球する姿勢が必要です。

(45) 筆者の考えに合うのはどれか。

短文
(2)
 感情とは、単純な生理的な反応のことではありません。電車のなかで足を踏まれても、踏んだ相手の自分への対応によって、怒りになったりならなかったりします。自分が痛い思いをしても、ときに(注)相手の方に同情しさえします。人が感じる怒りとは、自分が傷つけられたという実感に加えて、その傷つける振る舞いが不当であるという判断も含まれているのです。このように感情は、じつは価値判断に基づいているのであり、すでにそこには思考があるのです。
(注)ときに: 時には

(46) 感情について、筆者はどのように述べているか。

短文
(3)
 科学者は、一般に疑り深い。原因と結果が単純に結ばれる場合はそうでもないが、複雑な経路でつながっている場合には、論理の道筋がちゃんとたどれない限り疑い続けるのが通例(注)である。だから、新聞のインタビューなどで意外な結果や思いがけない現象について意見を聞かれたとき、必ず「もしそれが事実とすれば」という前置きをしてから推測を述べることになっている。より重大な結果を主張した論に対しては、より確実でより強固な証拠を要求するのも、その理由からである。
(注) 通例: ここでは、一般的

(47) 科学者について、筆者はどのように述べているか。

短文
(4)
 人間は一人では生きていけない。誰かと依存し合っている。かつては、自立ということを単純に考え、依存を少なくするほど自立すると考えられたこともあった。しかし、現在の心理学はそれほど単純に自立と依存を一直線上にある対立概念としては見ていない。適切に依存し、そのことについてよく自覚している者こそ自立しているのだ、と考える。依存をなくそうと努力するあまり、人間は孤立してしまい、そのために生じる障害によって、かえって自立性を奪われてしまう。

(48) 筆者の説明によると、自立した人とはどのような人か。

中文
(1)
 私は、何を表現したくて漫画を描いているのか? マンガ家を目指したころから考えていた。
(中略)
 古代から、似た物語はたくさんある。ドラマ(注1)作りで大事なのは、新しい筋立て(注2)やエピソードを無理やりひねり出すことより、 作者独自の考え方を、 ドラマにのせて表現することなのだろう。十代の私は、そう気づいた。 しかし「自分の考え」をどうやって確立するのか? 自分の考えのつもりでも、 人の意見に引きずられているかもしれない。
 そこで新聞を使った「修業」を思いついた。 毎朝、新聞を適当に開き、 目をつぶって紙面を指す。そして指先にふれたところに載っていた記事の中の人物になりきって「この後どうすればこの問題が解決するか? どう振舞うのがベストなのか?」を毎日、真剣に想像した。
 これをくり返すうち、 自分なりの考え方をきちんと言葉で表現する大切さが分かってきた。 そして自分が何を表現したいのかも、 おぼろげ(注3)ながら見えてきた。
 突き詰めると、 私は「ヒロインが何を考えているか」を描きたかったのだ。
 それまでの少女漫画には、 主人公である少女が能動的に動く物語が少ないように感じていた。 それよりヒロインの喜怒哀楽、 感情が描かれることが多かった。 でも私は、自ら考え決心して生き方を選ぶ少女を描きたかった。
 そのため私の作品では、 何かを決意するまでのヒロインの試行錯誤が長い。 第一読者である担当編集者には「理屈っぽい」と言われ続けている。 「ヒロインが泣く時に読者が共感してくれるんだ」とアドバイスされても、泣く前に考える女性を描き続けた。
(注1) ドラマ: ここでは、 ストーリー
(注2) 筋立て: 話の組み立て
(注3) おぼろげながら: ぼんやりではあるが

(49) 筆者は何のために新聞を使って「修業」をしていたか。

(50) 筆者は、「修業」を繰り返した後、漫画で何を表現したいと思ったか。

中文
(2)
 以下は、生物の進化について書かれた文章である。
 世界中にさまさまな形の角を持つカブトムシ(注1)がいますが、 その中のどれかが生き残りやすいということはありません。カブトムシとしての条件さえ整っていれば、角の形はどれでもいい。たまたま突然変異(注2)でいろいろな角のカプトムシが生まれ、 そこには環境圧力がからなかったので、 どれも生き残っただけの話です(もちろん、たとえば移動が困難なほど巨大な角など、生きるのに邪魔になる形質の個体は淘汰(注3)されたでしょう)。
 こうした形質は、進化のプロセスにおける「遊び」の部分だといえます。たとえば自動車なら、四角い車体にタイヤが四つあり、中にはエンジンやハンドルがあるといった 基本形は、どのメーカーでも変わりません。しかしそれ以外の細かい部分――ヘッドライトの形やシートの色や材質など――は、自動車としての本質にあまり関係がないので、車種やメーカーによってかなり多様性がある。 デザ イン的に遊べるのです。
 生物の場合も、デザイン的な遊びを入れる余地がなく、多くの種に共通する基本形はあります。生きている環境が同じなら、体型が似てくるのは当然の成り行きで、これは「収斂進化」と呼ばれています。たとえば哺乳類であるイルカの体型が魚類と似ているの収斂進化の結果のひとつです。
(中略)
 突然変異は生物の多様性を拡大しますが、 環境圧力にはその多様性を絞り込む役割があるといえるでしよう。生物の進化には、その両面があるのです。
(注1) カブトムシ: 昆虫の一種で、雄は角を持つ
(注2) 突然変異: 親にはない生物的特徴が子に現れること
(注3) 淘汰される: ここでは、滅びる

(51) カブトムシの例を挙げて筆者が言おうとしていることは、何か。

(52) 生物の進化について、筆者はどのように述べているか。

中文
(3)
 不正に対して、腹の底からふつふつと怒りが湧き上がってくるのは、人間にとってとて も大切なことです。そして、それが大きな共感となって社会全体に広がるとき、社会変革のうねり(注)が訪れます。
 しかし同時に私たちは、「正しい怒り」の罠についても、きちんと知っておかなくてはなりません。 「正しい怒り」で胸がいっぱいになると、 「怒っている私こそが正しいのだ」というふうに、私を正義の側に置いてしまいがちになります。すると、 私の正義を邪魔するものは「悪」である、 という思考回路ができあがります。
 それがさらにもう一歩進むと、「悪」である彼らに正義の裁きを加えて社会を良くするためならば、こっちだって少々の「小さな悪」を行なってもかまわないはずだ、となってしまうことすらあるのです。
 歴史を振り返ってみれば、このような行き過ぎが何度も繰り返されてきました。そして 「正しい怒り」で胸がいっぱいだと、なかなかそのような罠の存在に気づけません。
 すなわち、ほんとうの意味で「正しく怒る」とは、「不正は許せない!」という怒りによって動機づけられた自分の行為のひとつひとつが、客観的に見ても「正しい」と言えるのかどうかを、 たえず冷静に自己点検しながら、その怒りのエネルギーを上手に正義へと結びつけていくことではないかと私は思うのです。それができてはじめて、私たちはより良い社会を作っていけるのです。
(注)うねり: ここでは、大きな動き

(53) 「正しい怒り」の罠とはどういうことか。

(54)「正しく怒る」ことについて、筆者の考えに合うのはどれか。

中文
(4)
 経済学者のケインズは、「本を読むときは好意的に読まなければならない」と発言したことがあるが、それは、ケインズの論敵(注1)だったある経済学者 (スージーだったと記憶している)が、最初から悪意に基づく批判的な態度でケインズの著書を読むために、肝心の論点 を一向に理解しないこと(できないこと)を嘆いての発言であった。
 つまり、読む前から批判的な姿勢を持っていると、批判という意図的フィルターの介在によって、他者のつくった知的生産物との関わり方が、出発点から歪んでしまうのである。高名な著者になんとかして批判の一矢を浴びせてやろうと意気込んでいる人が書いた書評などを読むと、浅薄な(注2)揚げ足取り(注3)に終始している場合が実に多いのは、そのせいである。そんな読み方をしていては、「知」が血肉化する(注4)ことなど到底ありえない。やはり最初は、好意的な読みからスタートした方が得だろう。 好意的な読み方の先には、没入(注5)して読むという世界があると私は考えている。好意も批判もなく、ただ夢中になって読む。徹底的に読む。そうやって読んだものこそ、無意識のうちに内在化(注6)する。
(中略)
 ただし、私は批判的な読み方が不要だと言っているのではない。没入しないと深く読めないと言う一方で、しかし、批判的に読まなければ、読みが鋭くならないとも実感している。
 では、 どうすれば良いのだろうか。 バランスを取るにかぎる、 と物知り顔(注7)で言う人もいるかもしれない。しかし、ここで必要なのは、両者のバランスを取ろうとすることではない。そうではなくて、このふたつの読み方を意識的に往来することなのだ。
(注1) 論敵: 論争の相手
(注2) 浅薄な: 思慮が足りない
(注3) 揚げ足取り: 重要でない部分を取り上げて批判すること
(注4) 血肉化する: ここでは、自分のものになる
(注5) 没入する: 熱中する
(注6) 内在化する: ここでは、身につく
(注7) 物知り顔: よく知っているかのような顔

(55) 筆者によると、最初から批判的に読むことの問題点は何か。

(56) 筆者の考えに合うのはどれか。

長文
以下は、ある数学者が書いた文章である。
 数学というものは、解き方がわかってしまったあとで、力がつくことはない。解き方を身につける前の、まだ解き方のわからない間だけが、力をつけるチャンスである。解けるようになるのは同じでも、それまでのあり方で、力が身につくかどうかが、きまってくる。
 それに、おもしろいのも、本当は、まだ解けないで、いろいろと考えている間である。解けなきゃつまらないようだが、それは早く解こうとあせるからで、楽しみは解けるまでのほうにある。解けるようになったあとは、むしろむなしい。だいたい、「答えのわかっている謎」なんて、意味がない。解き方がわからないからこそ、問題の名にあたいするのだ。
 もちろん、まったく手がつかない(注1)のでは、おもしろくもないが、案外に、多少はわからないでも、頭のなかに飼っておく、そのうちに馴れてくれて、わかってきたりする。その、だんだん少しずつ、わかりかけというのも、オツな(注2)ものだ。そのためには、それを飼っておく、頭の牧場がゆたかでなければならない。本当のところは、数学の力というのは、いろいろとわかったことをためこむより、わからないのを飼っておける、その牧場のゆたかさのほうにあるのかもしれない。
 とくに、公式などをおぼえるのには、ぼくは反対である。それは簡単すぎて、少しもおもしろくないし、おぼえたものは忘れるものだ。とくに、急いでおぼえたものは、早く忘れる。同じおぼえるにしても、なるべくなら時間をかけたほうが、長持ちする。
(中略)
 このごろは、テストでおどされる(注3)ことが多いので、わかること、解けることを急ぐ傾向にある。たしかに、テストなどでは、時間がかぎられているので、急ぐのも多少は仕方がない。しかしながら、時間を制限されたときに急いでできるためには、時間の制限されていないときに、時間を気にしないでやっておいたほうがよい。テストで急ぐためには、テスト以外では急がないほうがよいのである。
 どんなやり方でも、わかって、問題が解けるようになる、という結果は同じかもしれない。しかし、ゆったりとやると、そのわかり方にコク(注4)が出てくるものだ。そして、その結果に達するまでの道筋を楽しむことで、力がつく。
 勉強を楽しむなんて、と思うかもしれないが、それは目的ばかり見てあせるからで、楽しむ気になれば、なんだって楽しめるものだ。
(注1)手がつかない:ここでは、できない
(注2)オツな:ここでは、おもしろい
(注3)おどされる:ここでは、早く問題を解かされる
(注4)コク:深み

(57) 数学の問題を解くことについて、筆者の考えに合うのはどれか。

(58) 頭のなかに飼っておくとはどういうことか。

(59) 筆者によると、どのように勉強すればよいか。

統合理解
A
 まじめで責任感が強く、負けず嫌いな人は「あきらめない」傾向があります。「あきらめない」ことは、基本的にはもちろんいいことなのですが、しかし一方、あきらめたほうがよいことも、実はけっこうあるものです。
 一所懸命に取り組んでも、うまくいかない、成果が出ない、充足感や満足感が得られ ない。そうした場合は「あきらめる」というのも、十分よい選択肢になります。 こうした場合の「あきらめる」とは、「やめてしまう」ということです。
 やめる際には、「うまくいかなかった。やめてよかったと思うのがコツでしょうね。 うまくいかなかったことを悔やみつつやめるのは、避けたいものです。それでは、うまくいかなかったことが尾を引いて(注)しまいます。「うまくいかなくてよかった」と思うくらいがちょうどいいでしょう。それができるようになると、一時的には落ち込んでも、 立ち直りが早くなります。

B
 最近は仕事で悩んでいる人に対して「無理をしないであきらめたほうがよい。」というアドバイスを目にすることがある。もちろん体調を崩してしまうような場合には途中でもやめるべきだ。しかしあきらめるということは、やれることはすべてやり尽くしたあとで考えるべきではないだろうか。困難な目標ほど簡単には達成できないものだ。だから、最初から、できなければあきらめてもいいんだという気持ちでいては、つらくなったときに頑張り続けることができない。
 仮にどうしてもうまくいかずにあきらめることになったとしても、精いっぱい努力した結果ならば納得できる。落ち込んだりくよくよしたりするのではなく気持ちを切り替えて、しっかり原因を考えて次に生かすことが重要だ。
(注)尾を引く: ずっと残る 

(60) あきらめることについて、A と B はどのように述べているか。

(61) A と B の認識で共通していることは何か。

主張理解
 子育て(養育)にしろ、学校での教育にしろ、当事者(親・教師)が心がけなければならないのは、まず子どもは親(教師)の思うとおりにならないということである。あるいは、こちらの思うとおりになったら、かえって問題だということである。
 「子供は親(教師)の思う通りにならない」という意味は、甘やかして野放図にして(注1)いいということではない。反抗は望ましいから、大いに結構だとも違う。もともと、親も教師も言葉で説得できるようになる以前から、まず子ども(生徒)たちを家庭や学校の生活の枠組みに入れなければならない。絶対に放っておくわけにはいかないし、理屈抜きで生活の型や秩序を押しつけざるをえない。それが親や教師の社会的役割であり、個人としてはどうかと思うようなことも、親や教師は、一律に画一的に身につけさせようとする。それは避けられない。望むと望まざるとにかかわらず、みんながやらなくてはならない。
 人間が社会的動物であるということは、そういうことであろう。動物が持って生まれてきた本能で自由に生きられるのに対して、ひとの子どもは動物的な本能を抑圧されて、社会的規範を生まれてから次々と覚え、身につけていかねばならない。これは、ほかの動物と比較すると、不自由なことである。親や教師は、そういうひとの宿命である不自由を子どもたちに身につけさせなければならない。
(中略)
 そういう社会的規範は、今の社会のレベルや段階が必要としていることであり、本当にひとの幸福にとってふさわしいものかどうかはわからない。ましてや、生まれ育っていくその子どもにとって、絶対的に必要なものかどうかもわからない。ただ、わかっているのは、社会的に生きていくために今ある社会的規範やルール、考え方をひとまず受け入れなければならないということだけである。そして、そういうひとを規制し構成してきたもろもろ(注2)の精神的な財産は、時代とともに変わってきたという事実である。だから、次の世代は、私たちと同じにはならない。したがって、子どもは親(教師)の思うとおりにはならないのだ。
 だから、次の世代は、私たちと同じにはならない。したがって、子どもは親(教師)の思うとおりにはならないのだ。
 もちろん、思うとおりにしようとすることは避けられないとしても、思うとおりにならないことを覚悟しているべきである。それが子ども(生徒)や、あとの世代の人たちへの尊敬であり、信頼であろう。「こちらの思うとおりになったら、かえって問題だ」も同じことだが、現在の人間や社会がすでに理想を実現した完璧な社会であるはずがないし、私たちが正しいと思い、子どもたちに押しつけている社会規範やルールも、あくまでも暫定的なものにすぎない。だから、私たちが予想した以上に、私たちの思いどおりになる子どもができてしまったら、大変なことになる。
 おとなと子どもとの誤差は、基本的にはいつでも歓迎していいことである。
(注1)野放図にする:勝手にさせる
(注2)もろもろの:さまざまな

(62) 筆者によると、親や教師は子どもや生徒に対して何をしているか。

(63) 精神的な財産とは何か

(64) 筆者が言いたいことは何か。

情報検索

(65) マリーさんは秋川大学で本を借りるために、図書館利用カードを作ろうと思っている。 今日は金曜日である。明日の夜までに本を借りたいが、図書館利用カードは、どのよう に申請しなければならないか。

(66) カイさんは、研究のために資料を借りたり複写したりする必要があって、秋川大学の文学部図書館に来た。図書館利用カードは持っている。今日は、授業期間の火曜日である。貸し出しと複写は、何時まで可能か。