短文
(1)
 「嫌い」はネガティブな(注)感情で、 まさに嫌悪感をもってしまいがちですが、自分の中に芽生えてきた大切な感情であり、大事な機能でもあります、何より根絶できません。
 「嫌い」はとてもパワーを必要とする感情ですから、それだけに反動も大きい。振り回されないための第一歩は、嫌いを認めることです。ネガティブな感情でも、もつことは自然なことであり、生きる上でメリットになる、そして周囲の人にもメリットがあると捉えてみてください。
(注) ネガティブな: 否定的

(45) 「嫌い」の感情について、筆者の考えに合うのはどれか。

短文
(2)
 安く売るべきか、品質にこだわるべきか。事はそんなに単純ではない。どんなに良い商品であったとしても、できるだけ価格を抑えるための努力は必要だ。品質にこだわる戦略というのは、品質さえ良ければどんなに高くても買ってもらえるという短絡的な戦略ではない。
 できるだけ価格を抑える努力はしているけれども、それでも品質にこだわるとこれ以上は安くできない。他社の商品よりも高いのだけれども、それだけの価値はある。だからその差額を許容してほしい。そう訴えることが、品質にこだわった正しい戦略である。

(46) 品質にこだわる戦略とは、 どういうことか。

短文
(3)
 時には、自らに「素朴な質問」を投げかけてみてはどうだろうか。子どもが親に尋ねるような「素朴な質問」というものは、意外にも人生や生きることの本質にかかわることであり、人生論や哲学の課題であることが少なくない。そうした質間を真正面から投げかけられたとき、はっと何か気づかされるところがあって、自分の日常を反省するような反応を示さないとしたら、その人の感性は相当に(注)枯れていると考えたほうがよい。
(注) 相当に: かなり

(47) 筆者が言いたいことは何か。

短文
(4)

(48) 筆者の考えに合うのはどれか

中文
(1)
 ともすると私たち大人は、自分たちの子ども時代の遊びはよくて、今の子どもの遊びは好ましくないと考えがちです。
(中略)
 今はダメで昔はよかったというような感覚をもって、今の子どもの遊びについて考えると、とんでもないことになります。子どもたちが嬉々として(注)遊んでいるものを取り上げて、今の時代ではおもしろくないような遊びを、無理に押しつけることになってしまいます。そうなると遊びが遊びでなくなってしまいかねません。
 また、私たちが考える好ましい遊び環境となると、なぜかとても整理された空間になりがちです。たとえば画一化された公園を見ると、ムダーつなく機能を重視したオフィスを連想させさえします。限られたスペースで、しかも安全性や管理の問題を考えればそうならざるをえないのかもしれませんが、それでは子どもが遊びたいと思わなくなるのです。
 子どもたちの遊び空間には、もしかしたら不自由さや不便さ、大人がムダだと思えるようなものも必要かもしれません。配慮の行き届きすぎた場所は、遊園地という商業施設は別として、子どもたちが自由に遊べる環境としては好ましくないのではないでしょうか。
 子どもたちの遊び環境について考えるときに大切なのは、私たち大人の側にあるそのような先入観です。自分は子どものころにこんな遊びをした。今の子どもはそれをしていない。だから今の子どもは遊んでいない。こんな単純な考え方では、決して子どものためになる遊び環境など考えることはできません。
(注)嬉々として: 喜んで

(49) とんでもないことになりますとあるが、どうなるのか

(50) 筆者が言いたいことは何か

中文
(2)
 私たち人間は、いろいろなものを食べる雑食性動物です。それに対し、基本的にパンダはササだけを食べ、コアラ(注1)はユーカリの葉だけを食べます。動物の生き残り戦略を考えると、雑食性動物の方が、慣れ親しんだ食べものが入手困難な状況になったとしても、それ以外の食べられるものへと嗜好をシフトすることによって飢餓を脱し、生存する確率を高めることができます。雑食性動物は環境適応性に優れた生きものといえます。
 しかしその一方で、新たに見つけ出した食べものが毒性をもっていたり、栄養バランスが悪いものであれば、健康を損ね、最悪死に至る可能性があります。そのため、雑食性動物は、新しい食べものを食べるときには、必ずそのリスクと対峙(注2)しなければなりません。
 すなわち雑食性動物は、食べたことのないものを食べるのを躊躇する「食物新奇性恐怖」と、積極的に食べようとする「食物新奇性嗜好」という相矛盾(注3)する行動傾向を、生まれながらに合わせもっているといえます。
(中略)
 雑食性動物がもつ食べものの新奇性恐布と新奇性嗜好のジレンマを解消してきたもののひとつが、人の「調理」という行為です。食べたことのない食材、たとえば昆虫をそのままの"原型"で出されると、拒否感を抱く人が多いですが、粉にしてチップスなど、見慣れたお菓子のかたちで提供されれば、食べる人は確実に増えます。さらに慣れ親しんだ調味料で味付けしたものなどであれば、「あっ、意外とおいしい」と好評価を得るかもしれません。この調理という操作が、新奇なものを食べるという恐怖を緩和させるのに一役(注4)買っています。
(注1)コアラ:動物の一種
(注2)対峙する:ここでは、向き合う
(注3) 相~:互いに~
(注4) 一役買う: ここでは、役立つ

(51) 筆者によると、 雑食性動物の特徴は何か。

(52) 筆者によると、調理することでどうなるか。

中文
(3)
 私は、自分の研究をおもしろいと思えるのと同じ程度に、他人の研究をおもしろいと思えるかどうかが、研究者に向いているか否かの判断の基準であると思っている。いくらいいデータを出す人であっても、他人のデータを自分の仕事と同じだけの熱量を持っておもしろがれなければ、研究者としてははっきり不向きであると思わざるを得ない。学者としては失格であろう。
 これがもっとも端的にあらわれるのが、研究発表の際に見られる質問の量である。
(中略)
 発表された内容を、当事者として自分ならこういうアイデアで実験をし、結果をこう解釈することもできある、明確な結論を得るためにはこの部分に不備があり、次にはこんな実験を計画すれば、もっとはっきりした結論に到達することができるのではないか、などなど、考え始めれば、おのずから尋ねたいことは次から次へ出てくるはずなのである。
 私はこれを「能動的に聞く」と言っている。人の話は、能動的に聞いてこそ、自らの身につくものである。話された内容をただひたすら覚えようとしたり、吸収しようとしているだけでは、却ってその知識は自分のものとならない。
 「能動的に聞く」とは、話された内容を、自らのこれまでの知の体系のなかに位置づけることであり、位置づけるためには、聞きつつ常に自分の知の体系を確認し、照合する作業を伴うはずである。外部からインプットされてくる内容と、既存の自らの知識の箱とのあいだに軋礫が生じるのは当然であり、その軋礫こそが質間を促す力になる筈なのだ。

(53) 筆者によると、研究者として不向きな人とはどのような人か。

(54) 筆者によると、 どのようにすれば質間の量が増えるか

中文
(44)
 企業Aと企業Bがあり、ある契約をそのどちらと取り交わすべきか考えるときに、A社は資本金1000万円、B社は資本金1億円であるという情報は、おそらく重要な情報の一つであると想定されるが、すべてではない。従業員数、年商(注)、営業継続年数、支社数・支店数、などなどのうちから、意思決定者が意思決定の方針に基づいて重要な情報を取捨選択しなければならないだろう。
 そのとき、ことさらにいくつかの情報に力点を置く報告書があげられたときに、意思決定者(経営者)はそこに存在する「意図」を充分に嗅ぎ取らなくてはならない。つまり、汚染されている可能性があるということである。ここで、報告された情報がすべて確実な事実であったとしても汚染は生じている可能性があるという点に注意が必要である。
 したがって、情報汚染とは、ある情報に、本来想定しているもの以外の何かが付随していて、それによっ てその情報の理解が歪むことをいう。その何かとは、その情報をもたらした側の意図である。この世界に「データのみで構成されていて、そこに意図の混入が認められない」という意味での無色透明な情報など存在しない。どのような情報であっても、意図という色で染められている。そして、重要なのはそれが必ずしも汚染ではないという点である。意図が混入するのは当然のことであり、すべての情報には意図が混入しているのであるから、それだけでもってそれを汚染とまでは呼べない。それが汚染となるのは、その情報に含まれる「意図」によって、その情報の本質部分である「データ」の理解が歪められるからである。
(注) 年商: 一年間の売り上げ額

(55) 「意図」を充分に嗅ぎ取らなくてはならないとあるが、 なぜか。

(56) 情報の汚染について、筆者はどのように述べているか。

長文
(1)
 以下は、森林を守るボランティア活動をしている人が書いた文章である。
 世界的に森林や自然の維持、復元に対する関心が高まってきたとき、この気運(注1)を支えた初期の理論は、人間中心主義的な森林・自然維持論、つまり人間の生存や未来にとって森林や自然の維持は不可欠であるという理論であった。いわばそれは、人間のための森林・自然維持論であった。ところが、この考え方は、たちまち暗礁に乗り上げる(注2)
 第一に、人間のための森林・自然維持論であるかぎり、人間のための森林・自然の開発論を否定できなくなる。なぜなら、どちらも「人間のための」という共通の基盤の上にたっている以上、その違いは価値観の違いにすぎず、人間の価値観を統一することなどできないばかりでなく、すべきでもないからである。
 第二に、「人間のための」といっても、その内容はさまざまである。農山村に暮らす人びとと都市の市民とでは、その感じ方は同じではないし、たとえば同じ山村に暮らす者でも、林業経営をしている者とそうでない者とでは、考え方が異なってくる。人と森の関係は多様である以上、 どうすることが人間のための森林自然の維持なのかと問われれば、その答えはさまざまである。
 第三に、「人間のための」という発想にたつかぎり、「人間のためにならない」自然は破壊してもよいということになりかねない。
 こうした問題点があったために、 「人間のための」論は、つまり人間中心的な森林・自然維持論は、たちまち破綻してしまった。自然保護思想の流れをみるなら、それに代わって生まれた理論は、自然中心主義的な考え方であった。それは、人間のためになろうとも、ならなかったとしても、自然はそれ自身のうちに生存権をもっており、その生存権は保障されなければならないというものであった。
 ところが、この考え方にも問題点があった。なぜならこの理論では、原生林や原生的な自然を維持する理論としては有効でも、たとえば日本のような、長い歴史のなかで自然と人間とが相互に影響を与えながら、それぞれが暮らしてきた地域の森林・自然の問題をよく説明できないからである。
 一例をあげれば、かつて農山村の人びとは、自分たちの暮らしを守るために、人家の近くに里山天然林をつくりだした。それは、徹底的に人間の手を加えた天然林である。
(中略)
 森林ボランティアとは、自発的に森の中で仕事をする人びとである。そうである以上、私たちは、人間中心主義的な立場にたっことも、自然中心的な立場にたつこともできない。
 とすれば、どうすればよいのだろうか。この問いに対して、私たちは、森林・自然と人間の関係を持続的に維持していくことこそが重要だと考える。単純に人間の未来を守ることでも、森を守ることでもない。森林と人間の関係を維持することによって、森と人とが相互的な依存関係をもっている日本の森と人の営みを守っていくことである。
(注1) 気運: ここでは、意識の高まり
(注2)暗礁に乗り上げる: ここでは、進められなくなる

(57) 「人間のための」論の問題点として、筆者の考えに合うのはどれか。

(58) 筆者によると、日本に関して、 自然中心主義的な考え方が問題なのはなぜか。

(59) 筆者によると、森林ボランティアの役割とは何か。

統合理解
A
 勉強やスポーツなど何かに取り組んでいる時にスランプはつきもの(注)だ。いつもどおりしているのに、全く成果が上がらない。そんな時間が続くと、自分には能力が足りないのではないか、これ以上は上達しないのではないかと自信を失ってしまう。
 しかし、スランプとは一時的に調子が悪くなっている状態にすぎない。誰にでも調子の良い時と悪い時があり、それは波のようにやってくる。悪い時にはそれを乗り越えようともがくのではなく、波に身を任せるようにするといい。現状をすなおに受け止め、これまでと同じことをやり続けるのだ。そうして自然に波を乗り越えれば、またやる気も自信も戻ってくる。そうすれば 、自然に次にやるべきことも見えてくるものだ。


B
 スランプの状態になると、調子が良かった過去と比べてしまいます。だから、その差にショックを受けてしまって、自信を無くしてしまうわけですね。調子の波があることは普通なので、良い時と比べるのは止めましょう。
 それよりも、今に集中することの方が大切です。今の自分を受け入れて、「これからどうするべきか」ということを考えてください。こういう考え方ができれば、前向きに物事を捉えることができるはずです。
 いつまでも過去に捉われている人は、後悔や焦りといった感情しか出てきません。しかし、今を見ている人だと、「どうすればいいか」という生産的な考え方ができるわけですね。
(注)つきもの: 当然あるもの

(60)スランプの時に落ち込んでしまう原因について、AとBはどのように述べているか。

(61)AとBは、スランプの時はどのようにするのがいいと述べているか。

主張理解
(1)
 以下は、十代の若者に向けて書かれた文章である。
 だれでも、自分が自分であることを望み、個性的であろうと願っている。そしてその一方では、自分が他のみんなと違った、自分であることを恐れている。
 本当は、「個性的」であろうと思って、個性的になれるものでもない。それはたいてい、「個性的」といわれる一つの型に、自分をあてはめていることだったりする。人間にとっては、「個性的であれ」などと言われても、どうしてよいかわからないものであって、「個性的」とよばれる型を持ったほうが楽なのだ。しかしそれは、本当に個性的なわけではない。
 それでも、青年期に向けて、個性的であろうと試みることは、よいことだ。かりにそれが、一つの型にすぎなくても、あるいは、個性的であろうとして挫折しり、「個生的であることから逃避することも含めて、自分にとって個性とはと、考えるのはよいことだ。それは、自分が自分であることの、あかしでもある。
 そこでは、ときに悩むことがあったり、どうしたら個性的な人間になれるかと、模索することもあるかもしれない。それはじつは、「個性的」であること以上に、自分というものを意識していく、一つの過程である。そうした意味では、「個性的」であるかどうかなんて、本当はたいしたことではなくて、自分というものが確立していくことが、大事なこととも言える。
 そしてじつは、個性というものは、人間のひとりひとりに備わったもので、その個性がありのままに出ていることが、本当の意味で個性的である。むしろ、本当の自分が出せないから、没個性的にもなるのだ。
 もちろん、人間はまわりの社会を気にするものであって、自分をよそおうことも含めてしか、社会のなかで存在できない。無理につっぱって、自分のよそおいを捨てようとしても、捨てきれるものではない。そうした、社会とのかかわりも含めて、自分というものはある。
 たいていの場合、つっぱったり、いじけたりしていては、自分の個性は発揮できない。つっぱるまいとするのが一種のつっぱりだったり、いじけまいとしてそのことにいじけたり、なんてことまで問題にしだすと、ちょっと言葉の遊びみたいになるが、ま、そうしたことまで含めて、気楽に自分であるようにしなくては、本当の 意味で個性的にはなれないものだ。
 そして、ありのままの自分を出すことへの不安が、「個性的」を一つの型にしたり、あるいはそうした型から逃れる道へ向かわせたりもする。
 それでも結局、自分とはありのままの自分しかない。それを自覚したとき、きみは個性的なきみになる。

(62) よいことだとあるが、 なぜか。

(63)個性について、筆者はどのように考えているか。

(64)筆者が最も言いたいことは何か。

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(66)応募に関して、留意しなければならないことは何か。