子育て(養育)にしろ、学校での教育にしろ、当事者(親・教師)が心がけなければならないのは、まず子どもは親(教師)の思うとおりにならないということである。あるいは、こちらの思うとおりになったら、かえって問題だということである。
「子供は親(教師)の思う通りにならない」という意味は、甘やかして野放図にして(注1)いいということではない。反抗は望ましいから、大いに結構だとも違う。もともと、親も教師も言葉で説得できるようになる以前から、まず子ども(生徒)たちを家庭や学校の生活の枠組みに入れなければならない。絶対に放っておくわけにはいかないし、理屈抜きで生活の型や秩序を押しつけざるをえない。それが親や教師の社会的役割であり、個人としてはどうかと思うようなことも、親や教師は、一律に画一的に身につけさせようとする。それは避けられない。望むと望まざるとにかかわらず、みんながやらなくてはならない。
人間が社会的動物であるということは、そういうことであろう。動物が持って生まれてきた本能で自由に生きられるのに対して、ひとの子どもは動物的な本能を抑圧されて、社会的規範を生まれてから次々と覚え、身につけていかねばならない。これは、ほかの動物と比較すると、不自由なことである。親や教師は、そういうひとの宿命である不自由を子どもたちに身につけさせなければならない。
(中略)
そういう社会的規範は、今の社会のレベルや段階が必要としていることであり、本当にひとの幸福にとってふさわしいものかどうかはわからない。ましてや、生まれ育っていくその子どもにとって、絶対的に必要なものかどうかもわからない。ただ、わかっているのは、社会的に生きていくために今ある社会的規範やルール、考え方をひとまず受け入れなければならないということだけである。そして、そういうひとを規制し構成してきたもろもろ(注2)の精神的な財産は、時代とともに変わってきたという事実である。だから、次の世代は、私たちと同じにはならない。したがって、子どもは親(教師)の思うとおりにはならないのだ。
だから、次の世代は、私たちと同じにはならない。したがって、子どもは親(教師)の思うとおりにはならないのだ。
もちろん、思うとおりにしようとすることは避けられないとしても、思うとおりにならないことを覚悟しているべきである。それが子ども(生徒)や、あとの世代の人たちへの尊敬であり、信頼であろう。「こちらの思うとおりになったら、かえって問題だ」も同じことだが、現在の人間や社会がすでに理想を実現した完璧な社会であるはずがないし、私たちが正しいと思い、子どもたちに押しつけている社会規範やルールも、あくまでも暫定的なものにすぎない。だから、私たちが予想した以上に、私たちの思いどおりになる子どもができてしまったら、大変なことになる。
おとなと子どもとの誤差は、基本的にはいつでも歓迎していいことである。
(注1)野放図にする:勝手にさせる
(注2)もろもろの:さまざまな