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経済学者のケインズは、「本を読むときは好意的に読まなければならない」と発言したことがあるが、それは、ケインズの論敵(注1)だったある経済学者 (スージーだったと記憶している)が、最初から悪意に基づく批判的な態度でケインズの著書を読むために、肝心の論点 を一向に理解しないこと(できないこと)を嘆いての発言であった。
つまり、読む前から批判的な姿勢を持っていると、批判という意図的フィルターの介在によって、他者のつくった知的生産物との関わり方が、出発点から歪んでしまうのである。高名な著者になんとかして批判の一矢を浴びせてやろうと意気込んでいる人が書いた書評などを読むと、浅薄な(注2)揚げ足取り(注3)に終始している場合が実に多いのは、そのせいである。そんな読み方をしていては、「知」が血肉化する(注4)ことなど到底ありえない。やはり最初は、好意的な読みからスタートした方が得だろう。 好意的な読み方の先には、没入(注5)して読むという世界があると私は考えている。好意も批判もなく、ただ夢中になって読む。徹底的に読む。そうやって読んだものこそ、無意識のうちに内在化(注6)する。
(中略)
ただし、私は批判的な読み方が不要だと言っているのではない。没入しないと深く読めないと言う一方で、しかし、批判的に読まなければ、読みが鋭くならないとも実感している。
では、 どうすれば良いのだろうか。 バランスを取るにかぎる、 と物知り顔(注7)で言う人もいるかもしれない。しかし、ここで必要なのは、両者のバランスを取ろうとすることではない。そうではなくて、このふたつの読み方を意識的に往来することなのだ。
(注1) 論敵: 論争の相手
(注2) 浅薄な: 思慮が足りない
(注3) 揚げ足取り: 重要でない部分を取り上げて批判すること
(注4) 血肉化する: ここでは、自分のものになる
(注5) 没入する: 熱中する
(注6) 内在化する: ここでは、身につく
(注7) 物知り顔: よく知っているかのような顔