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 不正に対して、腹の底からふつふつと怒りが湧き上がってくるのは、人間にとってとて も大切なことです。そして、それが大きな共感となって社会全体に広がるとき、社会変革のうねり(注)が訪れます。
 しかし同時に私たちは、「正しい怒り」の罠についても、きちんと知っておかなくてはなりません。 「正しい怒り」で胸がいっぱいになると、 「怒っている私こそが正しいのだ」というふうに、私を正義の側に置いてしまいがちになります。すると、 私の正義を邪魔するものは「悪」である、 という思考回路ができあがります。
 それがさらにもう一歩進むと、「悪」である彼らに正義の裁きを加えて社会を良くするためならば、こっちだって少々の「小さな悪」を行なってもかまわないはずだ、となってしまうことすらあるのです。
 歴史を振り返ってみれば、このような行き過ぎが何度も繰り返されてきました。そして 「正しい怒り」で胸がいっぱいだと、なかなかそのような罠の存在に気づけません。
 すなわち、ほんとうの意味で「正しく怒る」とは、「不正は許せない!」という怒りによって動機づけられた自分の行為のひとつひとつが、客観的に見ても「正しい」と言えるのかどうかを、 たえず冷静に自己点検しながら、その怒りのエネルギーを上手に正義へと結びつけていくことではないかと私は思うのです。それができてはじめて、私たちはより良い社会を作っていけるのです。
(注)うねり: ここでは、大きな動き

1。 (53) 「正しい怒り」の罠とはどういうことか。

2。 (54)「正しく怒る」ことについて、筆者の考えに合うのはどれか。