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いま、ハーバードやMIT(マサチューセッツ工科大学)、あるいは日本の京都大学でも、授業内容のインターネットでの公開を始めている。せっかく大学に入って授業料も支払っているのに、その内容がインターネットで見られるというのは、どういうことだろう。
要するに、もはや(注1)そこで得られる知識や情報=コンテンツは世界共有になってしまったのだ。かつては、東京に行かなければ得られない知識、あるいはパリやニューヨークまで行かなければ得られない情報というものが確かにあった。しかし、いまや(注2)、どんな情報も知識も、インターネットで簡単に手に入れることができる。そのことを大前提にしつつ、それでも「ここで、共に、学ぶ」ことが重要な時代になってきたのだ。もはや、学校の、少なくとも大学以上の高等教育機関の存在価値は、新しい知識や情報を得る場所としてではなく、共に学び、議論し、共同作業を行うという点だけになった。
だとするならば、大学側も、どのような学びの共同体をそこに実現するかを、きちんと公表していかなければならない。どんな学生に来て欲しいのかを示すと共に、どんな教職員がそこにいて、そこにどのような「学び」が実現するのかを、はつきりと示していかなければならない。
(注1) もはや: すでに
(注2) いまや: いまでは

1。 (59) いまの大学について、筆者の考えに合うのはどれか。

2。 (60)大学について、 筆者が言いたいことは何か。