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人間というのは①奇妙な生き物である。自分の力を使って自分の利益になることを行い、それがうまくいけば嬉しいというのは、個体が生き残っていくために当然のことだが、自分の力を使って何かをやって、他者、とりわけ(注1)身近な他者が喜んでくれると、それがまた嬉しい。そういう生き物なのである。これもまた人間の自然であって、ほかの生き物にはあまり例がない。思えば、親が子どもを喜ばせようと、美味しいものを食べさせたり、面白いおもちゃを買いあたえたりすること自体が、この人間的な喜びよう(注2)の典型である。子どもの笑顔を見たい親たちにとって、子どもを守ることそのもの(注3)が子育ての喜びとなる。教師もまた、子どもの喜ぶ姿を見ることを教育の喜びにしている。では、子どもの方はどうなのだろうか。
子どもたちが周囲から守られて、喜びをあたえられる機会は、昔に比べて圧倒的に増えている。逆に、②何かを任されて、相手を喜ばせる機会や体験を、いまの子どもたちはどれくらい味わっているだろうか。まだ社会全体が貧しくて、子どもが一人の生活者として働かなければ家が回っていかなかった(注4)時代には、子どもたちは否応なく(注5)そうした体験を味わった。子どもが働くのが当然というなかでは、親が誉めてくれるわけでも、喜びをおもてに表してくれるわけでもないのだが、それでも子どものなかには、自分が役立っているという感覚が確実にあって、それが生活者としての子どもの自信となった。
(中略)
しかし、今日のように経済的に豊かな社会になって、生活のほとんどが貨幣でまかなわれる(注6)ようになると、子どもに頼り、子どもに任せる領域(注7)がどんどんと減ってくる。それにつれて、子どもたちは自分の力を使って役立つ機会を失い、結果として子どもは【ひたすら守られる存在】にされてきた。
「子どもを守れ」というのは当然のことである。しかしおとなたちが善意で子どもたちを【ひたすら守る】とき、それはかえって子どもたちから、相手に役立ち、相手を喜ばせて喜ぶという人間の自然を奪うことになる。
(注1) とりわけ: 特に
(注2) 喜びよう: 喜び方
(注3)そのもの: 自体
(注4) 家が回っていかない: ここでは、生活ができない
(注5) 否応なく: 嫌でも嫌でなくても
(注6)まかなう: ここでは、済ませる
(注7)領域: 範囲

1。 (67) ①奇妙な生き物であるとあるが、 筆者はなぜそう考えるのか。

2。 (68) ②何かを任されて、相手を喜ばせる機会や体験は、昔の子どもたちにどのような影響をあたえたか。

3。 (69) 筆者がおとなたちに言いたいことは何か。