新しい芸術について語り、芸術は、つねに新しくなければならないと主張するまえに、「新しいということは、何か」という問題をはっきりさせたいと思います。
まず、新しいという言葉そのものについて、考えてみましよう。①
以外にも、大きな問題をふくんでいます。だいいち、この言葉の使い方に、混乱が見られるのです。たとえば、新しいということは、無条件に清純で、ちょうど酸素のように、それがあって、はじめて生きがいをおぼえるような、明るい希望にみちたものです。
ところで、また、これが逆によくない意味で使われることがあるのは、ご存じのとおりです。つまり、また無条件に、なまっちょろくて未熟、確固としたものがない、
軽佻浮薄(注1)の代名詞にもなるのです。
おなじ言葉に、このような二つの相があり、反対の価値づけをされています。一方にとって強烈な魅力であり、絶対的であればあるほど、それだけまた一方には、対極的に反発し、悪意をもつ気配も強いのです。これが抽象語におわっているあいだは問題はないのですが、いったん社会語として、新旧の世代によって対立的に使い分けをされはじめると、思いのほか深刻な意味あいをふくんできます。いったい、どういうわけで、どんなぐあいにこの対立が出てくるか、見きわめる必要があります。
新しさをほこり、大きな魅力として押しだしてくるのは、それを決意するわかい世代であり、このもりあがりにたいして、古い権威は、既成のモラルによって批判し、進断しようとするのです。
(中略)
世の中が新鮮で動的な時代には、新しさが輝かしい魅力として受けいれられ、若さが希望的にクローズアップされます。しかし反対に、動かない、よどんだ時代には、古い権威側はかさにかかつて新しいものをおさえつけ、自分たちの陣営を固めようとします。
たとえば、われわれの身辺をふりかえつてみても、この②
命的な攻防ははっきりと見てとれるのです。
(中略)
言葉の使い方のうらには、あいいれない対立的な立場、時代的な断層があるのです。にもかかわらず、同じ共通語でちがった考えを主張するから、混乱がおこってくるのです。
このように言えば、新旧の対立を、やや図式的に二分しすぎ、新しい芸術家の立場から身びいき(注2)な言い方をしているように感じられるかもしれません。しかし、歴史をひもとけば、あらゆる時代に残酷な新旧の対立があり、新しいものが前の時代を否定し、打ち倒して、発展してきていることがわかります。
自分の時代だけを考えていると、どうしても、ものの見方が近視眼的に、安易におちいりやすいので、どこまでも広く、冷静に観察すべきなのです。
(岡本太郎「今日の芸術一時代を創造するものは誰か」光文社知恵の森文庫)
(注1)軽佻浮薄:気分が浮わついていて、軽々しいこと。
(注2)身びいき:自分に関係のある人だけに特別な対応すること。