ある人は、コンクリートも自然素材であるという。主要な材料は砂、砂利(注1)、鉄、セメントであり、セメントも石灰石(注2)が主原料であるから、それらの自然素材を組み合わせて作つたコンクリートも自然素材だというロジツクである。(中略)
 自然素材か否かの境界は極めて曖味である。そこに線を引く行為に安住してはいけない。線引きからは何も生まれない。線引きは何も正当化しない。われわれは、①線引きの先に行かなくてはいけない。自然な建築とは、自然素材で作られた建築のことではない。当然のこと、コンクリートの上に、自然素材を貼り付けただけの建築のことではない。
 あるものが、それが存在する場所と幸福な関係を結んでいる時に、われわれは、そのものを自然であると感じる。自然とは関係性である。自然な建築とは、場所と幸福な関係を結んだ建築のことである。場所と建築との幸福な結婚が、自然な建築を生む。
 では幸福な関係とは何か。場所の景観となじむことが、幸福な関係であると定義する人もいる。しかし、この定義は、建築を表象として捉える建築観に、依然としてとらわれている。場所を表象として捉える時、場所は、景観という名で呼ばれる。表象としての建築と、景観という表象を調和させようという考えは、一言でいえば他人事として建築や景観を評論するだけの、②傍観者(注3)の議論である。表象として建築を捉えようとした時、われわれは場所から離れ、視覚と言語とにとらわれ、場所という具体的でリアルな存在から浮遊していく。コンクリートの上に、仕上げを貼り付けるという方法で表象を操作し、「景観に調和した建築」をいくらでも作ることができる。表象の操作の不毛に気がついた時、僕は景観論自体が不十分であることを知った。
 場所に根を生やし、場所と接続されるためには、建築を表象としてではなく、存在として、捉え直さなければならない。単純化していえば、あらゆる物は作られ(生産)、そして受容(消費)される。( A )とはある物がどう見えるかであり、その意味で受容のされ方であり、受容と消費とは人間にとって同質の活動である。一方、存在とは、生産という行為の結果であり、存在と生産とは不可分で一体である。どう見えるかではなく、どう作るかを考えた時、はじめて幸福とは何かがわかってくる。幸福な夫婦とは、見かけ( B )がお似合いな夫婦ではなく、何かを共に作り出せる(生産)夫婦のことである。

 (限研吾「自然な建築」岩波新書による)

 (注1)砂利:小石や、小石に砂が混ざつたもの
 (注2)石灰石:鉱物の一種
 (注3)傍観者:今起こっている問題をそばで見ているだけの人

1。 (1)①線引きの先に行かなくてはいけないとあるが、どういう意味か。

2。 (2)②傍観者の議論とあるが、傍観者の例として合わないものはどれか。

3。 (3)( A ) ( B )の組み合わせとして適当なものはどれか。

4。 (4)筆者の考えによると、「自然な建築」とはどのようなものか。