新国立劇場俳優研修所の研修生の選考基準を一言で、といわれてもそう簡単に答えられるものではありません。実際、選考方法も数名の委員で何度も討議を重ねています。特定の作品のオーディションならば、はじめから選考する作品のそのキャラクターが決まっていますから、たとえ何十人と会おうが、ある程度見た瞬間に①
選ぶことは可能でしょう。 ところが研修所では十年後を見据えなければなりません。今、せりふを上手にしゃベることができても、それがいったい何になるのでしょう。高校を事業したばかりの初々しい十八歳から小劇場を二つくらい経験してきたような三十歳までが集まっています。
せりふを小器用にこなし、
敏捷に体を動かせたりすることではなく、基本的にその人間としての輝きを見ること、その輝きが消えることのない情熱によるものとしか答えようがありません。三年間の基礎訓練のなかで、その人が自分をどう見つめ、鍛えていくのか、その後、より大きくなったその人がプロの俳優としてどのような方向へ進んでいくべきなのか、それも同時に考えておくべきことなのです。
また、俳優としての基本的な技術だけを身につけても、それだけではまだ俳優ではありません。自分自身の表現のための確かな演技力と同時に、人間への観察と洞察を続け、世界への理解を深めていかなければ「俳優」にはなれないのです。
音楽家が楽器を使いこなす技術を身につけたうえで、そこから自分の音楽をつくり上げていくように、俳優にも技術力と同時に、表現力と想像力が必要になってくうのです。そこで毎回違った自分と出会うためのレッスンが持続的に必要となり、粘土細工のように一つのカタチをつくってはその歪みに気づいて崩すという作業が繰り返され、いろいろな表現の可能性の幅を広げていくことが、新しい作品と出会うたびに求められるのです。
では「努力は才能を超えるのか」という問いに対して、「素質の発見」が必要だと答えます。誰もが、必ず何かの素質を持っているはずであって、あるときはそれを自分で発見できるように導いてやることも必要でしよう。しかし、自分で自分を見つけることを教える教則本などは、ありません。自分が足を前に出さない限り、教師がいくら動いて見せても無駄であるように。
演劇がどんなに好きであっても、俳優に向いていないこともあります。(中略)また、演劇の仕事を断念し、故郷に戻る人もいるでしょう。しかし、その場合でも、その人たちが故郷に帰って、いい観客になる。もちろん演劇を教える教師を志す人が出るかもしれない。そうやって②
間口が広がっていくことで、大切な演劇人が広がっていくことにもなるのです。
(栗山民也『演出家の仕事』岩波新書による)