短文
⑴人生やビジネスに目標を持つべきだ、というようなことが最近よく言われるが、わたしはそういう言い方に違和感を覚える。目標というものは、 「持つべきだ」とか「持ったほうがいい」ものではなく、 「持たなければいけない」とわざわざ啓蒙するものでもない。人生のあらゆる局面における「前提」なので、そのことがコンセンサス(注)になっている社会では、目標を持つことについて語られることはないからだ。
(注)コンセンサス:‘ここでは、共通の理解

(46)目標について、筆者の考えに合うのはどれか。

短文
(2)以下は、恥じらい(注)め表情と喜びの表情の違いについて述べた文章である。
心理学者のアゼンドルフは、恥じらいと喜びの表情をいろいろ集めて分析した結果、微笑みが最高潮に達する時期と視線を伏せる時期との微妙なタイミングのズレが鍵であることを突き止めた。すなわち、微笑みがピークに達する一秒ほど前に視線が伏せられると恥じらいの表情として見えるが、ピークに達した直後に目が伏せられるとそれは喜びの表情と判断されるというのだ。
試しに、鏡に向かってやってみていただきたい。違いが分かるだろう。
(注)恥じらい:恥ずかしがること

(47) 恥じらいと喜びの表情はどの点で違うか。

短文
(3) 「今」の勝負、つまり本番に弱いというひとは、失敗を恐れる気持ちがつよいのだとおもう。誰しも失敗は望まないが、人並み以上に失敗を恐れるのは、皮肉にも精度の高い到達イメージ、完成形が描けている結果だともいえる。完全なものへの願望は融通に欠ける到達のイメージでひとを縛ってしまうので、「今」起こっている現実そのものに合わせていくという柔軟な態度をゆるさない。予定どおりでないにしろ、その場で、なんとかやり過ごせる(注)、間に合わせられる、という行動が本番では求められているのだ。
(注)やり過ごす:ここでは、切り抜ける

(48)筆者によると、本番に弱いひとはどうすればいいか。

短文
(4)日頃の他者とのつきあいでは、相手の一言一言が嘘だと疑ってかかっているわけではない。いちいちそんなふうに接したら失礼にあたる。つまり「性善説」 (注)をデフォルト(基本)として相手と接するのが普通だろう。相手の発言は真実だと思ってそれを基準に判断するから、それを嘘だろうと見直すのは難しい。そうすると、仮に多少不自然な言い方やしぐさがあったとしても、そしてそれが実際に嘘の手がかりとして有効であったとしても、見落としてしまう可能性がある。
(注)性善説:人間は生まれつき善い人だという考え方

(49) 見落としてしまう可能性があるのはなぜか。

中文
(1) 以下は、文芸作品の賞の選考について書かれた文章である。
 書いたものが売れれば、それでいちおう報われる。多くの読者の支持があったということだからである。贅沢を言うようだが、それだけでは、何だか心もとない(注)。売れるということには、様々さな意味合いがある。いい本だから売れるとは限らないし、売れたからいい本だとも言えない。
 そこに賞の意味がある。売れようが売れまいが、これはいい本ですよ。それがある程度保証される。お金とは違った価値観がそこに示される。
 私はいくつかの賞の選考に関係している。賞をいただくより、賞を選考する方が好きかもしれない。書く場合には、自分の力量が問われる。しかし、選考する場合には、自分の目が問われる。目が悪いと、何もかも同じに見える。違いがわからないのである。その意味では美術品、骨董品の評価と同じであろう。
 書く時には、ある専門分野について、力があればいい。でも選考する時には、それだけでは不足であろう。どのような分野であれ、よいものとは何か、それを見極める目が要求される。その代わりに、専門分野について、必ずしも詳しい必要はない。
(中略)
 選考する時の喜びは、複数の選考委員が同じ著作を本音で選んだ時である。自分もそれを支持している時には、自分が賞をもらったのと、似たような嬉しさがある。賞を受けた人の喜びが、まさに他人事ではなくなるのである。このあたりの心理が、なかなかおもしろい。
 選考する側も、常に自分の価値観を問われている。推薦した作品が受賞するのは、その価値観がいわば受賞することだともいえよう。
(注)心もとない:頼りない

(50)本が売れることについて、筆者はどのように考えているか。

(51)筆者によると、賞を選考する時に必要な力とはどのようなものか。

(52)自分が當をもらったのと、似たような嬉しさがあるとあるが、なぜか。

中文
(2)以下は、ある企業家が書いた文章である。
 企業が利益を確保するために社員を捨てる、整理するというのは市場の意思です。リストラに遭った人は、自分の会社を恨んだり、文句を言ったりしますが、それは違う。厳しい言い方をすれば、消費者があなたの会社の商品を買わない、つまりあなたの給料は払えないと言っているわけです。
 会社という堅牢(注)な箱で守られていると考えてはいけない。社員一人ひとりは、消費者や市場とつながっている。社員個人個人の集合体が企業なのです。
 私は社員の年金制度を廃止し、ボーナスも退職金も一切取りやめました。新入社員も含めてすべて年俸制にし、それぞれが稼ぎ出した利益に応じて査定する(注2)システムに変えたのです。年俸は、前年比プラスかマイナスかどちらかで、横ばいはありえません。会社の利益が増えれば全体の年俸の原資(注3)は増えますが、それはプラス評価をした人だけに配分します。
 会社で働くというのは、会社の利益を増やすのが目的です。その利益は株主と社員に分配されます。利益の多寡(注4)は顧客、すなわち消費者が決めます。彼らにいかに喜ばれる仕事ができるかが重要です。働くとはそういうことです。私は日頃から社員に「給料をもらって働く人は要らない、働いて給料をもらう人しか必要ない」と言っています。社員という言葉はこれから死語になり、「商人」という言葉がそれに代わると思います。会社が何かしてくれるという考えを捨て、個である自分が商人として顧客,消費者に何を与えられるかと発想する時代なのです。
(注1) 堅牢な:頑丈な
(注2) 査定する:評価する
(注3) 原資:ここでは、資金
(注4) 多寡 :多少

(53) それは違うとあるが、なぜか。

(54)筆者の会社の給料の決め方はどのようなものか。

(55)筆者が会社で働く人に求めているのはどのようなことか。

中文
(3)以下は、議論について書かれた文章である。
 意見とはある問題に対する解決である。しかし、それは単なる「感じ」や「心情」の表明ではない。根拠を伴って、その内容が客観的に正しいのだ、ということを相手に強制する構造をしている。たとえば「私はこう思う。なぜなら〜からだ。」と言うとき、「なぜなら〜からだ」の部分を聞いて、「なるほど」と思ったら、その前の「こう思う」の部分も承認しなければならない。それが、①議論というゲームのルールなのである。
 相手が自分の根拠を認めれば、相手に自分の意見を押しつけることができる。逆に自分が相手の根拠を認めれば、自分の意見を捨てて相手に従わねばならなくなる。つまり議論とは、支配と屈従(注1)という権力関係を暗黙のうちに含むシビアなゲームなのである。②議論に負けると、何だか梅しい感じになるのは、そういうことなのだ。
 しかし、これが「勝ち負け」に終わらないのは、双方が「真理の探求」という共通の目標を持っているからだ。議論してどちらが正しいかを決定するのは、勝ち負けを決めることが主なる目的ではない。よりよい解決を求めるためである。だから、議論に負けても、それは相手に負けたことにはならない。真理に負けた、いや従っているのである。悔しがるより、自分がより真理に近づいたと満足すべきなのだ。
 議論に参加する者は、まずこの「真理への献身」を共有しなければならない。根拠の承認を迫る形式に則って(注)発言することは、いわば、この暗黙の献身を表しているのである。
(注1)屈従:自分の意志に反して従うこと
(注2)則る:従う

(56)①議論というゲームのルールとはどのようなルールか。

(57)②議論に負けると、何だか梅しい感じになるとあるが、なぜか。

(58)筆者の考えに合うのはどれか。

長文
 タレントがその私生活を自分からマスメディアに公表することは、いまではまったく珍しくなくなった。これまでマスメディアに私生活を暴露され憤慨してきた彼らが、自らの結婚や離婚、病気などについて、自分からファクスでマスメディアに連絡する。もちろん一般の人びとにとっては、知らされてもほとんど関係ない話ばかりである。彼らの行動を自己宣伝や売名行為ととらえて眉をひそめる(注1)人も少なからずいる。一方でプライバシー保護を訴えておきながら、都合のレ|いときだけ私生活をさらけ出そうとする、というわけだ。
 だが別のとらえ方はこうである。彼らは先手を打とう(注2)としているのだ。マスメディアに勝手に詮索(注3)され、おもしろおかしく記事にされる前に、自分の方から情報公開してその出ばな(注4)をくじこうという、いわば他人による勝手な物語化に対する予防措置である。
(中略)
 マスメディアによって自分のイメージをつくられてしまいそうな人びとにとって、自分自身の情報を自らコントロールすることの重要度は高い。そうしなければ、他人によって勝手なく私〉、自らの物語的分身、すなわちファンタジー・ダブルがつくられて、社会を独り歩きし始めることになりかねないからだ。そのためにマスメディアを利用しようとするのである。昨今、人びとはマスメディアに対抗する強力な情報発信ツールを手に入れた。それはインターネットであり、またそれを活用したウェブサイトやブログ(注5)である。人びとはそれらによってさまざまな自分の活動、知識や趣味、日常生活、そしてときには心境や悩みなどまで公表するようになった。く私づくり〉の主導権を確保するうえでは、画期的な手段である。実際の効果がどの程度かはわからない。だがイメージづくりのイニシアティヴをマスメディアに握られていた人びとにとって、自力で公に情報発信する有力な手段を手に入れたことに変わりはないだろう。人びとは、今度は自らの手でつくった自分自身の物語(ファンタジー・ダブル)を世に出そうとする。
 これはごく一部の人びとの話だと思われるかもしれない。だがこのことからは、一般的にプライバシーがどのように私たちの自己とかかわっているかをはっきり見て取ることができる。彼らに限らず、一般的にプライバシーとはく私づくり〉のイニシアティヴの問題である。
 近代社会では、このイニシアティヴは基本的に各個人にあるとされてきた。自分自身がどのような人間になるか、そしてどのように生きるかは、その人自身の主体的な意思や選択にゆだねられる。これは個人の人権の一つとされてきたのである。だがこの権利が奪われ、他人が勝手に個人の自己ニく私〉をつくろうとし始めるとき、私たちはプライバシー侵害を訴える。そして何とかく私づくり〉のイニシアティヴを自らのもとに引き戻そうとする。
(注1)眉をひそめる:不快な気持ちを表情に出す
(注2)先手を打つ:ここでは、先に動く
(注3)詮索する:細かいところまで調べる
(注4)出ばなをくじく:相手が始めようとしていることを妨げる‘
(注5)ブログ:日記形式のウェブサイト

(59)タレントが私生活を自分からマスメディアに公表することに対して、一般の人びとの間にはどのような意見があると筆者は述べているか。

(60)筆者は、なぜタレントは自分から私生活を公表するようになったと考えているか。

(61)強力な情報発信ツールとあるが、筆者はなぜ強力だと考えるのか。

(62)現代社会におけるく私づくり〉について、筆者はどのように考えているか。

統合理解
A
 「私、絵が描けないのです」と言う人がたまにいる。そんな訳はない。紙とペンがあれば誰だって描ける。紙がなくったって、何だっていい。でも、描けないというのは、「それらしく」描かなくてはならないという気持ちがあるからだ。馬を描きたかったんだけど牛になってしまった、りんごを描いたのがみかんに見える。だから絵はうまくない、描きたくないとなる。でも、絵は正確さを要求されるものではない。自分の馬、自分のりんごを描けばいい。絵はそれくらい「いいかげん」なものであり、許容範囲の広いものである。本物らしく描くことは、描くことではなく写すこと。描くということは自分なりの形でいいのだ。 (中略)
 誰だって絵を描けるし、誰だって絵を楽しめる。それらしく描く技術よりも喜んで描く気持ちが大切であり、絵に失敗はなく、不正確もない。それが自分の作品であり、それは自分の世界である。

B
 絵が上手になるには、とにかく多くの絵を描く経験が大切だ。絵がうまくならないという人は、うまく描けないからといって途中であきらめてしまうことが多い。だがたとえうまく描けなくても、まずは最後まで真剣に描き上げることが重要だ。
 さらに、描く対象をしっかり観察して、考えながら描くことも大切だ。対象をよく見ると新しい発見も多いので、描くことが楽しくなる。実はこの描くことを楽しむ気持ちが最も重要なのだ。どんなことでも、楽しければたくさんできる。多くの経験を積めば、それだけ上達するというもので、絵を描くことも同じだといえる。

(63)絵を描くことについて、AとBはどのように述べているか。

(64)AとBの認識で共通していることは何か。

主張理解
 多くの人が今の社会は生きづらいと言う。
 長いこと農林業者や職人、漁業者達に会って話を聞いてきた。明治生まれも大正生まれも昭和の方もいた。その方々も、自分たちは生きやすく、楽しい人生を送ってきたとは言わなかった。
 私が会った多くの方々は徒弟制度(注)のなかで技を身につけ生き方を学んできた人達だった。林業者達は親方や先輩に仕えて、道具の使い方や山や木の性質、癖を読み取る方法を覚えて一人前になった。漁師達もそうだ。父や兄の船に乗り込み、飯坎きから始めて、その日の水温や風の流れを読み、漁場を決め、そこに合った道具を選び、漁獲を得るようになる。
 教える親方や先輩達は「見て学べ」と言うだけだった。自分の指先や感覚、体が覚えた技を伝えるには言葉はあまりに幅が狭すぎるからだ。
(中略)
 やがて一人前になり、腕を上げれば、効率は上がり、利益も出るようになるが、目指す到達点が遠いことに気づく。だから日々の①努力を惜しまなかった。努力だけが自分を補ってくれる手段だったからだ。努力は辛いものであったが、喜びも伴っていた。積み重ねれば明日があり、報われることがあったのだ。
 しかし、②時代は変わった。時間のかかる訓練を避け、効率の向上を目指した。効率こそが価格競争に勝てる最高の武器だと考えたからだ。工場はもちろん、漁師は機械を満載した高速船を手に入れ、農業者はトラクターを買った。森林の伐採も機械がする。
 世の仕組みも、人々の考えも努力や修業、技を持つ体を不要なものとしたのだ。技はデータとして機械に組み込まれ、人間に付属するものではなくなってしまった。修業は人を磨き、生き方を支えるものであったのだが、それがなくなった。
 今、人は働かされていると感じている。そこでは隠された能力が引き出されることがない。見つけ出す過程がなくなったからだ。報いは金銭であり、喜びが薄っぺらなものになってしまった。働くことの意味が変わったのだ。
働くことと生きることは人生の裏と表であった。生きづらい世の中と思う人が多いのは、働くことに喜びが伴わなくなったからではないか。私の会ってきた人々は自分の仕事を語るとき、苦しかったとは言いながら、表情に生気があり、誇りがにじんでいた。
 社会が変わっても人は生きていかねばならない。働かねばならない。機械を捨てろというのではない。効率も必要だ。しかし、新しい時代の中で働く意味と喜びを見つけ出さなければ、生きづらさが増すばかりだ。
 働くことの喜びをどうやって復活させるのか。お手本はほんのこの間までの日本にある。たくさんの方達の話を聞いてきてそう思う。
(注)徒弟制度:ここでは、弟子として技を習得する制度

(65)親方や先輩が技を言葉で教えなかったのはなぜか。

(66) ①努力を惜しまなかったのはなぜか。

(67)時代は変わったとあるが、人の働き方はどう変わったのか。

(68)筆者の考えに合うのはどれか。