短文
(1)
 ファッションなど、流行は模倣を前提にしている。真似られなければ、フ ァッションなど成立しない。ミニスカートをデザインしたとしても、特定のデ ザイナーのものだけが売れるのでは、流行にはならない。多くの者が模倣して はじめて流行は成立するため、ファッションなどには、模倣を誘発させようと する意図が最初から織り込みずみだ。

(浜野保樹『模倣される日本――映画、アニメから料理、ファッションまで』 による)

(46)流行について、筆者はどのように考えているか

短文
(2)
以下は、ある会社で回覧された文書である。

2012年6月27日


営業部社員 各位
総務部長

業務用携帯電半の貸与について


 このたびぴ、業務用携帯電語を貸与することにいたしましたので、貸与申請書を7月10日までに総務部までご提出くだい。業務用携帯電語は、7月17日以降順次配付いたします。
 また私物の携帯電話の業務使用は、3月1日以降禁止いたします。7月31日までの通鮎料金の講求書類は、5月31日必着で総務訂にご提出ください。

(47)業務のために携帯電話を使用している人はどうしなければならないか

短文
(3)
 情報化、グローバル化と言われ、視野を広げるべき時代に、実は極めて限られ た世界、社会でしか情報や価値観を得られていない人が増えているように思え ます。インターネットは世界中どこにでもつながりますが、自分で意識しないと、限られた価値観の情報だけが集まり、さらに深く入り込む。世界観を広げるインターネットが、逆に世界観や価値観を狭めてしまう、視野狭窄(注)に陥らせる道具となってしまうのです。

(伊藤真『会社コンプライアンス――内部統制の条件』による)


(注) 視野狭窄(きょうさく) :見える範囲が狭くなること

(48)この文章で、筆者はインターネットをどのようにとらえているか。

短文
(4)
 この社会にはどこかに中心があって、自分はその中心から遠く離れたところに押しやられ(注1)ていると感じている 人は多い。しかし、私は私自身の「生きる意味」を創造し、私の生きる世界に意味を与える存在なのであり、世界の中 心は私自身にあるのだ。しかし、それは「自己チュー」(注2)の世界ではない。なぜなら、私自身が意味を生み出す中心 であることを認めるとき、私たちの周りには私だけでなくたくさんの中心があることが分かってくるからだ。
(上田紀行「生きる意味」による)
(注1)押しやる:押してどける
(注2)自己チュー:自己中心のこと。自分のことしか考えないこと

(49) 筆者の考えを最もよく表しているのはどれか。

中文
(1)
 私は、「どうしたらわかりやすく伝えられるか」ということを常に考えていま す。
 その一方で、「話を単純化しすぎてはいけない」ということも胆に銘じ(注1)ています。
 この兹ね合いが、結構難しいのです。扱うテーマに関して勉強を積み重ね、知識が増えるほど、難しくなります。
生半可(注2)にしか知らないときのほうが、簡単にざっくり(注3)単純化できたりします。でも、そのために結果として、全体像が見えずに歪んだ像を示したり、事実とニュアンスが違ってきてしまったりすることにもつながります。これはとても①怖いことです。
 それを防ぐには、どうしたらいいか。(中略)
 まず、調べたいことを勉強して、誰かに話してみます。簡単に話ができたら、要注意。学部生レベルである可能性が高いからです。そこで満足せずに、さらに深い勉強をしてみましょう。すると、あら不思議。急に話が難しくなります。これが大学院生レベルです。いわば②「わかりやすい説明」に至るスランプのようなものです。
 そこで挫折せず、さらに勉強を深め、「この話のキモ(注4)は何なのか」を考え抜きましょう。すると、ある日突然、自分でも驚くほど、わかりやすい説明ができていることに気づくはずです。あなたは、その分野で、晴れて「指導教授」の立場まで成長したのです。学部生レベルの人の説明の間違いを訂正してあげることもできるようになったことでしょう。
 最初の単純化で満足せず、さらに高みを目指すとスランプに陥る。そこを突破 すると、「わかりやすい説明」が可能になる。このプロセスが、キモなのです。

(池上彰『<わかりやすさ>の勉強法』による)


(注1) 胆(きも) に銘(めい) じる:決して忘れないようにする
(注2) 生半可:中途半端
(注3) ざっくり:大まかに、粗く
(注4) キモ:最も大事なところ

(50)①怖いこととは何か

(51)②「わかりやすい説明」に至るスランプとあるが、どのような状態か。

(52)筆者は、スランプを突破するにはどうすればいいと述べているか

中文
(2)
 児童文学の多くは、子どもの視点で書かれています。もちろん作者は大人なのですが、子どもの考え方や、子どもの目の高さから見える風景を描いています。当然のことながら大人が読む場合、そこにどうしても①視点のズレが生じます
 けれど大人はみな、昔、子どもでした。子どもを卒業して大人になったと思っているのが、子どもだった自分を抱えたまま大人になったと思っているのかは人それぞれでしょうが、尐なくとも、だれもが子ども時代を過ごしてきています。大人の視点で読みながら、子どもの頃の視点を思い出すことは可能です。自分の中の子どもに寄り添って、一緒に読むとでも言えばいいでしょうか。
 子ども時代に読んだ本を再読すると、同じ場面なのに、子どもの頃の自分と今の自分とでは、感じ方や受け取り方がちがうのに気づくことがあります。それは今の自分が、自分の心の中にいる子どもと向かいあう一瞬です。そうした機会に、今の子どもたちへのまなざしを新たにすることもあるでしょう。たとえば、「近頃(ちかごろ) の子どもにはこまったものだ」と文句を言っていたけれど、子どもの頃の自分はどうだったのか?と問い直す。大人であることにあぐらをかいていた(注)自分を省みる。そんなことが起こるかもしれません。
 ②どうぞ、「子どもの本」を開いてみてください

(ひこ•田中『大人のための児童文学講座』による)


(注) あぐらをかいていた:ここでは、何の疑問も感じずにいた

(53)①視点のズレが生じますとあるが、なぜそうなるのか。

(54)筆者によると、視点のズレを解消するためにできることは何か。

(55)②どうぞ、「子どもの本」を開いてみてくださいとあるが、筆者はなぜそのように述べていると考えられるか。

中文
(3)
 ファースト•フードが世界中にひろがったのは、文化や人間の集合状態に変化 が起こっていたからである。家族はこれまでほど安定したものではなくなったし、私的な生活、労働や遊びのパターンも個人的かつ多様になっていたのである。人間の接触が煩わしいものに感じる傾向も増大した。食事がもつ楽しみは感覚と社交の至上の快楽ではなくなった。それは他の行為のあいまに挿入されるものとなることが多かったし、それと平行して人間は食事を簡便に済ませることを望んだことも考慮すべきであろう。
(中略)
 もちろん都市の食文化にとってファースト•フードが占める位置は、コンビニが買い物行動にたいして占める位置と同様、全面的ではない。しかし多種多様なレストランがいたるところに叢生(そうせい) (注1)してくるなかに、ひとつの均質化する力として割り込み、かつローカルな都市を世界的な規模にまでひろがった同一の網目に組み込むことは、無視できない力の兆候的現象なのである。
 おそらくこうしたファースト•フードの経験は、意識されていることがら以上に、ほとんど意識されない感覚的な影響の方が大きいだろう。かつての食の内容からみると、貧困としかいいようのないメニューに慣れること、あえて社会的関係を破壊しようとしないでも、人びとはファースト•フードの利用によって、いつのまにか都市の遊民(注2)になっていくこと、そしてこの食形式の共有によってわれわれは奇妙なかたちで、われわれ自身をいつのまにか世界化していること、などである。

(多木浩二『都市の政治学』による)


(注1)叢生(そうせい) する:ここでは、多くできる
(注2)遊民:ここでは、社会的関係をもたない人

(56)筆者によると、ファースト•フードがひろまった理由は何か

(57)兆候的現象とあるが、それはどのような現象か。

長文
 まず、教育とは何か、ということから考えてみよう。さしあたってぼくは、教育とは、子どもを「社会の成員(大人)としてふさわしい存在」へと育て上げていくこと、と定義してみたい。
 どんな時代、どんな社会の人びとでも、子どもを大人に育て上げなくてはならなかった。そのさいには、①社会の成員として「ふさわしい」あり方が何かしら想定されていて、それが教育の営みを導いていたはずだ。
 その「ふさわしさ」は、大きく二つに分けられるだろう。一つは、働いて食べていけるために必要な能力、つまり農民なら農民としての、漁民ならば漁民としての、技能や知識。もう一つは、他の人びとのあいだでふさわしいふるまいができること――基本的なルールを守り、他の人びとと協力する態勢をとれること、自分に与えられた役割を果たし、その責任をとれること等々、つまり、他者との関係能力である。
 では、現代社会においては、どういうことが「大人としてふさわしい」のだろうか?教育理念を構築するとは、このことをあらためて考え、かつ共有しようとすることに他ならない。 だが、この「共有」ということはなかなかむずかしい。そこには、社会のあり方と人間の生き方をどのようなものとして思い描くか、つまりは、異なった社会観•人間観がさまざまに入り込み、衝突してくるからだ。
 たとえば、ぼくが最初にあげた「教育とは、子どもを社会の成員としてふさわしい存在にすることだ」という定義に対しても、②反発を覚える人がいるだろう。「それは、社会的期待に子供を添わせようとするよくない発想だ。教育とはむしろ、子供の主体的な判断力を育てるものだ」というわけである。
 この意見はしかし、「社会の秩序にただ従うだけでなく、主体的な判断のもとにみずからの人生をつくりあげ、社会のあり方をも批判的に検討する人間こそが社会の成員としてふさわしい」という近代的な人間観にもとづいている。これもまた、社会の側が子どもたちに寄せる「期待」の一種だと言わざるをえない。そして子供を放置すれば主体的•批判的な人間になるはずもないから、そのように「育て上げ」ようとしなくてはならない。
 いずれにせよ、教育というものは、社会(大人)の側が子供に寄せる期待、もっと強い言い方をすれば、ある種の強制から自由ではない、とぼくは考える。重要なことは、「この社会の一員、つまり大人として生きていくうえで何が必要な条件なのか」ということをきちんと見定め共有したうえでの強制であるかどうか、という点なのだ。

(苅谷剛彦•西研『考えあう技術――教育と社会を哲学する」による)

(59)①社会の成員として「ふさわしい」あり方とはどのようなものか。

(60)教育理念を「共有」することがむずかしいのはなぜか。

(61)②反発を覚える人の意見について、筆者はどのように考えているか

(62)教育について、筆者の考えを表しているのはどれか

統合理解
A
 私たち日本人がこれまで培ってきた日本語を次の世代に伝えていくうえで、国語辞典のデジタル化は避けて通れない課題です。辞書のデジタル化は「電子辞書」という形ですで
に実用化され、多くの人が利用してきました。わからないことばを瞬間に検索できる電子辞書は「データ検索」というコンピューターの強みを生かしたもので、ことばに関する膨大な情報をポケットに入れて持ち歩けるようになりました。
 でも、書籍の大辞林(注1)を手にとって眺めていると、電子辞書では味わうことのできない楽しみがあることに気付かされます。ページをぱらぱらとめくりながら、気になったことばの解説を読むという楽しみ方です。辞書は単にことばを調べるだけでなく、読み物としてもじゅうぶんに楽しめます。

(広瀬則咽仁三省堂2011年11月25日取得による)



B
 最近の電子辞書研究によると、電子辞書を用いた学生は単語にたどり着く時間は早いが第一義の(注2)意味だけを読むことによる誤答率が高まるという。また僕が行った大学生のメデイア行動調査でも印刷辞書と電子辞書は、意外なことにかなりの率で使い分けられている。パソコンとネットを使いこなす理工系学生でも、アンダーラインを引いたり、使いこなすにしたがってカスタマイズできる(注3)印刷辞書の魅力を語っていた。「印刷辞書はマイ・デイクショナリー(注4)になりますから」という発言が象徴的だった。生まれたときからデジタル機器に囲まれて育った今の学生でも、メデイアの本質を見披き使い分けているのである。

(植村八潮三省堂2011年11月25日取得による)


(注1)大辞林:国語辞典の名前
(注2)第一義の:ここでは、一番目に書いてある
(注3)カスタマイズする:ここでは、自分に都合のいい使いができるようにする
(注4)デイクショナリー:辞書

(63)電子辞書の長所について、A とB が共通して述べていることは何か。

(64)印刷された辞書について、A とB はどのように述べているか。

漢字読み

1。 それは愚かな行動だった。

2。 相手チームの巧妙な作戦に引っかかってしまった。

3。 町の公園は人々の憩いの場として親しまれている。

4。 この製品は需要が高く、生産が追いつかない。

5。 道路の拡張工事によって、渋滞が緩和された。

6。 工場の跡地が公園になった。

文脈規定

7。 コピー代は、後で払うので、とりあえず(  )おいてもらえませんか。

8。 この問題の最終的な対応は、社長に(  )することに決まった。

9。 疲れると、甘いものがなぜか(  )食べたくなる。

10。 彼が自分の意見を(  )主張したせいで、話し合いがちっとも進まなかった。

11。 こんな大事な取り引きは、入社2年目の社員には(  )が重いだろう。

12。 お気に(  )ことを申し上げてしまったようで、申し訳ありません。

13。 この数日ずっと雨で、窓も開けられないので、部屋が(  )して気持ち悪い。