わたしは、大学に入るまえに、町工場で三年間はたらいていた。
 そこで、いろんな人に出会って、仕事を教えてもらい、世の中のことを学んだ。
 現実の社会にいたことが、そのあと、大学の受験勉強をするときに、学科をきわめて(注1)わかりやすいものにした。
 受験したのは、私立大学だったので、受験科目は、国語と社会と外国語の三科目だけだった。社会や国語の試験は、はたらいているときに読んでいた本で、ほぼ間に合わせることができた。
 このように、現実の社会での、①具体的なものをきっかけにしてものを憶えたほうが、はるかに知識が身につく。
 親や教師たちは、ストレートに(注2)上級学校へすすむのがいちばん効率がいいことだとかんがえがちである。しかし、病気で一年おくれたりして、まわり道したひとのほうが、むしろ、人間が大きくなったりする。
 わたしの知り合いの息子で、高三のときに、ひとりで中国の奥地からパキスタンに抜け、トルコを通ってフランスなどのヨーロッパをまわり、大西洋岸のポルトガルまで、ヒッチハイク(注3)で横断した生徒がいる。
 そこでいろんなひとに会った経験は、その後の勉強のプラスになっているようだ。「ピースポート」(注4)でいろんな国をまわって、さまざまな人たちに出会う中・高校生もいる。
 こういう体験は②机の上で年表(注5)暗記するより、はるかに有意義である。
 外国といわなくても、自転車で日本国じゅうをまわることもできる。いまのように、机の上での勉強だけが教育、というかんがえ方は、人間性をゆたかにするじゃまになっている。
 いま、人生は八十年といわれている。このうち、中学時代はたった三年間でしかない。だから、けっして、中学生の三年間で、人生のすべてがきまるわけではない。
 さいきんは、こどもたちが家の仕事の手伝いをしなくなった。
 そんなことをするより、勉強しているほうが子どもにとっていいとかんがえる親がおおくなったためだ。しかし、いまの大人で、子どものときに家の手伝いをした人はおおい。
 それは、けっして、そのひとの人生にとって、むだにはなっていないはずだ。

(鎌田慧『学校なんかなんでもない』ポプラ社)


(注1)きわめて:非常に、たいへん
(注2)ストレートに:まっすぐに、直接
(注3)ヒッチハイク:道で、通った車に乗せてもらいながらする旅
(注4)ピースボート:船に乗って色々な国に行き、人々と交流する活動
(注5)年表:歴史上のできごとを、起こった順に並べた表

(1)①具体的なものの例としてこの文章の中であげられているのは、どれか。

(2)②机の上で年表暗記するとは何を表しているか。

(3)筆者がこの文章でいちばん言いたいことはどんなことか。

 私は①靴に四十年も悩まされてきた
私は、中学二年になって急に身長が伸びてきた。妹の私が兄を追い越した。いっしょに足も大きくなった。高校生のときは、大きい靴がとてもはずかしかった。就職して初めての給料で、いちばんに靴を注文した。しかし、出来上がった靴は、かわいらしいとはとても言えないものだった。
それからずっと、靴には困らされてきた。足に靴を合わせるのではなく、無理をすれば履けそうな靴に、足を合わせてきた。縮めていた指は、変形し、爪は何度生え変わったことか。痛くならない靴などないのだと、あきらめていた。
ところが五年ほど前、何となく開いた雑誌に東京の小さな靴屋が紹介されていた。私と同じように合う靴がなくて悩み続けていた人が、そこの靴で悩みが解消されたという話も出ていた。これなら、と期待がふくらんだ。
数か月後、用事で東京へ行ったついでに、その靴屋に寄ってみた。心配そうに靴を脱いで見せた私の足に、靴屋さんはさわって言った。
 「②これは大変でしたね。腰まで痛かったでしょう。」
そうして、試しに履かせてくれた靴の履はきやすさといったら……足をやさしく包んでくれて、指はのびのび伸ばせる。こんな靴がこの世にあったのか、と感動した。そのまま履はいて帰りたかった私は、その場で一足注文した。
 「海辺で育ちましたか?」と、靴屋さん。
 「ええ。海のすぐ近くではなかったですが……」
 「そうですか。魚をたくさん食べて育った人の足ですよ!」
 「ん?……ええ、魚は大好きです。でも、どうして?」
 「三浦海岸に住んでる人も同じ足でしたよ。どうしてなのかねえ……」
 靴屋さんの笑顔が、③(  )。四十年かかって、ようやく出会えた笑顔だった。

(宮部紀子「魚を食べた足」『片手の音―05年版ベスト・エッセイ集』文藝春秋による)


 

(1)筆者はなぜ、①靴に四十年も悩まされてきた

(2)②これは大変でしたねとあるが。何が大変だったのか。

(3)③(  )に入る言葉として最も適当なものはどれか。

 障子は破ろうと思えばすぐ破れる。ちょっと物が触ったり、子供が指を突いただけで破れてしまう。こんな弱い商品はない。しかしだれもが、障子は欠陥商品だから、もっと強度を上げろとは主張してはいない。この障子というものは、 ①もののあり方の非常によい面を示している。ものがメーカーの努力によってよくなった。丈夫になって、ちょっとやそっとでは壊れない。このことが使う側に乱暴に扱っても平気という粗暴な気持ちを養ってしまった。ものによって人間が育てられるということの逆現象である。丈夫なもの、壊れないものを使って、知らぬ間に壊れていったのは人間自身のほうだ。だが障子は、弱いがゆえにこそ、取り扱う者に丁寧な扱いを要求する。それによって、扱う者が育つ。昔ながらに、障子のあけしめ(注1)一つにしても作法があるのは、そういう意味を持っているのである。
 それだけではない。障子は、直すことを考えるという立場からみたとき、②実にすばらしいものだ。今日の進んだ技術の道具、例えばマイクロ・コンピューターでも自動車でも、直すときは、その故障した部分を修理するのではない。悪い部分を含めたユニット全体を取り替えてしまう。部分修理のめんどう、手間を節約したほうがより合理的だという姿勢である。仮にICが二十個ついたプリント基板があって、そのうち一個が壊れていたとすると、そっくり取り替えてしまうから、壊れていない残りの十九個も廃棄してしまう。そういう修理方法が最近ではきわめて多くなってきた。これは障子の修理の仕方と正反対である。
 障子では、一箇所破れたといっても全部取り替えるようないことはしない。そればかりか、破れた桝の一五センチ角ぐらいの紙全体を切り取ってそこに新しい紙をはるというようなことさえ、初めはしない。まずは、破れた所を元に戻し、破れ目に色紙を紅葉の葉にかたどってはるというようなことをする。すると、その障子は、修理する以前よりも美しくなる。たいていのものは壊れる前を100とすれば壊れて30、直して80がいいところだが、障子は破れる前が100で、直せば130にもなる。壊れて修理したほうがより美しくなる。パリから有名なデザイナーが来て、日本の建築をあちこち見て歩いたとき、破れた障子に、紅葉や桜がはってあるのに、いたく(注2)感じ入って、そればかりカメラに収めて帰ったという。
 ものを直すということは人間にとって非常にだいじなことであり、道具というものにほんとうの愛情を感じる源でもある。修理は機械と人間とが一体となることなのだ。
(注1) あけしめ:開けたり閉めたりすること
(注2) いたく:たいへん、とても

(71)①もののあり方の非常によい面とは、ここではどのようなことか。

(72)②実にすばらしいものだとあるが、筆者によると、それはなぜか。

(73)筆者はこの文章で何を言いたいのか。

 最近の新聞記事によると、今の日本は労働力が足りないそうである。あちこちで人手(注1)が足りないといって、アジアのほかの国に労働力を求めるようになった。
 しかし、①ふしぎなことに、同じ新聞には、日本の失業率が5%になったとか、仕事や住むところがなくて生活に困っている人がいるといった記事もある。外国人労働者に来てもらわなければならないほど労働力が不足しているというのに、どうしてそういうところにこれらの日本人が就職しないのか。私にはちょっと納得がいかない。
 特におかしいと思うのが若い失業者たちである。というのも、彼らの多くが「自分らしい仕事」が見つからないから失業中、という決まったせりふを言うからだ。仕事はたくさんある。でも、どれを見ても「自分らしく」なさそうで魅力がないからやめた。だから、何もせずただ日々を過ごしているというわけだ。
 実際、このあいだもテレビを見ていたら「六本木あたりの外資系(注2)の仕事」につくのが「自分らしい」のだと答える青年がいたのにびっくりした。冗談じゃない。たしかに東京・六本木の超高層ビルのおしゃれなオフィスは、かっこいい舞台に見える。しかし、そんな職場や仕事につけないから「自分らしく」ない、だから何もしないでぼんやりしている、という発想がどこから出てくるのだろう。
 そもそも、私にはこの「自分らしい」ということの意味がよくわからない。どうやら、テレビやマンガを通じて出来上がった、理想の職業、収入、ライフスタイルなどのイメージが「自分らしい」ということらしい。それ以外の生き方は「自分らしく」ないのである。大都会のエリートになることが「自分らしい」、地味な職業につくのは「自分らしく」ない、というのは非現実的である。はっきりいって、わがままである。
 もしも「自分らしさ」というものがあるなら、それは与えられた仕事をまじめにして、自分の生活を作ったときに自然と生まれてくるものなのである。「六本木の外資系」などというイメージより、現実の世界で自立(注3)すること。そこで生活の意味を見つけたときに、はじめて本当の「自分らしさ」が見えてくるのではないだろうか。
(注1) 人手:仕事をする人
(注2) 外資系:外国資本の会社
(注3) 自立:他人の助けや力を借りないで、自分の力で生活すること。

(71)「①ふしぎなことに」とあるが、何を指しているか。

(72)文中の若者たちが考える「自分らしさ」に近いものはどれか。

(73)筆者がこの文章で言いたいことは、どんなことか。

 実際、統計をとったわけではないのですが、科学者のおそらく9割近くは「事実は科学の中に存在する」と信じているのではないかと思います。一般の人となると、もっと科学を絶対的だと信じているかもしれません。しかし、 ①そんなことはまったくない。
 たとえば、さいきんでは地球温暖化の原因は炭酸ガス(注1)の増加だ、というのがあたかも(注2)「科学的事実」であるかのように言われています。この説を科学者はもちろん、官公庁も既に確定した事実のようにして、議論を進めている。ところが、これは単に一つの説にすぎない。
 温暖化でいえば、事実として言えるのは、近年、地球の平均気温が年々上昇している、ということです。炭酸ガスの増加云々というのは、『あくまでもこの温暖化の原因を説明する一つの推論にすぎない。ちなみに、温度が上昇していることも、それ自体は事実ですが、では昔からどんどん右肩上がりで上昇しているかというと確定は出来ないわけで、もしかすると現在は上下する波の中の上昇の部分にあたっているだけかもしれない。
 最近、私は林野庁と環境省の懇談会に出席しました。そこでは、日本が京都議定書(注3)を実行するにあたっての方策、予算を獲得して、林に手を入れていくこと等々が話し合われた。そこで出された答申の書き出しは、「CO2(注1)増加による地球温暖化によって次のようなことが起こる」となっていました。私は「これは“CO2増加によると推測される”という風に書き直してください」と注文をつけた。するとたちまち官僚から反論があった。「国際会議で世界の科学者の8割が、炭酸ガスが原因だと認めています」と言う。しかし、科学は多数決ではないのです。
 「あなたがそう考えることが私は心配だ」と私は言いました。おそらく、行政がこんなに大規模に一つの科学的推論を採用して、それに基づいて何かをする、というのはこれが初めてではないかと思う。その際に、後で実はその推論が間違っていたとなった時に、非常に問題が起こる可能性があるからです。
 特に官庁というのは、一度何かを採択するとそれを頑として変えない性質を持っているところです。だから簡単に「科学的(A)」を真理だと決め付けてしまうのは怖い。
 「科学的事実」と「科学的理論」は別物です。温暖化でいえば、気温が上がっている、というところまでが科学的(B)。その原因が炭酸ガスだ、というのは科学的(C)。複雑系の考え方でいけば、そもそもこんな単純な推論が可能なのかということにも疑問がある。しかし、この事実と推論とを混同している人が多い。厳密に言えば、「事実」ですから一つの解釈であることがあるのですが
(注1) 炭酸ガス・CO2 :二酸化炭素
(注2) あたかも:まるで
(注3) 京都議定書:地球温暖化防止京都会議で議決した事項を記録 したもの

(71)そんなこととはどういうことか。

(72)(A) (B) (C) に入る言葉の組み合わせとして適当なものはどれか。

(73)筆者の最も言いたいことは何か。

 若い人の多くは、基本的に、①作られたレールの上を走りたくない作られたレールの上を走りたくないと思っています。しかし、いざ勉強のこととなると、何かのレールに乗ることで自然に学力をアップさせてもらうことを望みがちですね。
 そもそも勉強というのはなかなかおもしろくならないものです。学力を向上させる上でいちばん大事なのは基礎学力。基礎学力をつけるっていうのは、スポーツに置き換えると筋力トレーニングと同じで、面白いものではありません。でも、それをやらない限り絶対に学力は上がらない。絶対にやらなきゃいけないものがある時に、漫然と取り組むより、戦略を立ててやったほうがゲーム性が高まって面白いんです。例えば、「東大合格」という目標を設定して、そこから逆算して今やらなきゃいけないことをやっていく。作戦を立てて目標を一つ一つクリアーしていく。ロールプレイングゲームの感覚で勉強を進めていくんです。
 また、受験生が陥りやすい勘違いの一つに、授業を受けさえすればそれだけで勉強した気になるということがあります。実は、僕は父親の仕事の関係で、中学1年生から3年生の間、南アフリカのヨハネスブルクで過ごしました。その間、ある通信教育を受け、結局、高校3年生までその通信教育を受け続けました。その結果があったと思います。なぜなら、通信教育だと主体的に勉強しない限り前に進めない。例えば、問題集をするのだと、答えが載っているので自分で調べるくせがつかない。しかし、通信教育だと自分で調べなければならないし、調べることですごく力がつくと思います。何かをやらない限り成長はありませんし、やったことというのは必ず何らかの成果をもたらすものです。
 勉強で大切なのは、どう楽しむかということ。勉強は本当に日々の積み重ねが大事で、楽しもうと思ってするのとそうでないのとでは大きな差がついてしまいます。勉強できないのは自分の能力のせいだと思いがちですが、②勉強ができる人とできない人の一番の差は、頭がいいかどうかではなく、勉強に向かう時の気の持ちようだと思うんです。
 学力をアップさせるには地道に勉強に励むしかありません。より早く解くにはどうすればいいか、弱点をなくすにはどうすればいいか、といったように、試行錯誤の中で学力は伸びていく。そうした試行錯誤の経験は、その後の何事においても役立つはずです。

(71)①作られたレールの上を走りたくないとはどういうことか。

(72)筆者は、通信教育についてどのように述べているか。

(73)筆者によると、②勉強ができる人とできない人の一番の差は何によってつくか。

 大学の授業でコミュニケーションに関するゲームをやると、いろいろなことがわかって面白い。一つ紹介しよう。
 まず、一人の人に下のような図形を見せる。その人は、この図形がどんな形か、身振りや板書などを使わずに、言葉だけでほかの人たちに説明する。伝えられた人たちは、その情報を頼りに各自、図形を描く。所要時間3分。見本とほぼ同じものが描ければオーケイというわけだが、このゲームの成功率はだいたい10%ぐらいで、①非常に低い。それほど複雑な図形でもないのに、なぜこんなにうまくいかないのか。
 ほとんどの場合、説明者は、最初にこう言ってしまう。
 「まず、丸を描いてください」
 これを聞いた人たちは、めいめいいろいろな丸を描く。大きな丸を紙一杯に描く人もいれば、左上のほうに寄せて小さく描く人もいる。心理テストにでも使ったらおもしろそうだ。描いている人たちは皆、自信がなさそうに、少し首をかしげながらやっている。  それもそのはず。いきなり、ただ「丸を描け」と言われても、全体像が見えていないのだから、聞き手は戸惑うばかりだ。話し手のプレゼンテーション・マインドが欠けてい て、聞き手本位の話し方ができていないといえる。
 それを、こんなふうに言ったらどうだろうか。
 「まず、この用紙は縦に使ってください。これから皆さんに 5つの図形を描いてもらいます。図形は上から、丸、正方形、正方形、丸、正方形の順序です。それぞれがすぐ そばの図形と接しています。重なり合っている図形はありません。丸の大きさは直径 5センチくらいです。正方形も同じ大きさです。では、一番上の丸から描いていきましょ う。」
 いきなり丸を描けという代わりに、全体的なこと、用紙の使い方とかトータルな図形 の数を先に説明する。そう、わかりやすく話すための第 1 のポイントは全体から話すことである。
 また、このゲームの場合、「直径 5  センチくらい」と具体的に説明することで、グッと正解に近づくことができる。2  番目のポイントは「具体的に話すこと」である。この第  2のポイント、何事も具体的に話す習慣をつけると、コミュニケーション上手な人に一歩 近づける。
 人は皆、おもに言葉という記号を用いて伝達し合う。この本の読者ならば、日本語と いう共通の記号を理解しているから、本が読めるし、話も通じるのだ。「犬」と聞けば、 あるいは読めば、日本語の約束を知っている人なら誰でも「ワンワン鳴く動物」を思い浮かべる。ここまでは皆いっしょだ。
 しかし、 【A】  そこで、こんな犬だということを正確に伝えるために、私たちはより具体的に説明を加えるであろう。
 自分の意図をできるだけブレの少ない形で伝えたいと思うなら、やはり具体的に話すことが重要になる。

(71)この文章は何について書かれたものか。

(72)①非常に低いのはなぜか。

(73)A の部分には、どのような内容の文章がくるか。

 経済協力開発機構(OECD)によると、GDP(国内総生産)に占める学校などの教育機関への公的支出割合が、日本は28か国の中で下から2番目の3.3%だったそうだ。1位はアイスランドで7.2%、2位はデンマークの6.7%だ。もちろん日本は GDPが4兆円以上もあるので、総額から見るとそれほど少ないわけではない。しかし、教育支出に占める家庭の支出の割合が21.8%と高く22か国の中で2番目だった。教育を家庭に頼っているのだ。これでは貧しい家庭の子供が十分な教育を受けられない可能性が出てくる。日本の将来が危ない。
日本人が教育を大切にしてきた例として有名な 「米百俵」という話がある。あるとき、米の収穫が減って苦しんでいた長岡藩(注)にお見舞いとしてお米が百俵 (約 6トン)届けられた。藩の武士やその家族は米が配られるのを今か今かと待っていた。ところが小林虎三郎この米を売って藩の学校を建てようと提案した。おなかが空いてたまらない武士たちは初めは大反対であった。しかし小林は 「食べられないからこそ教育しなければならない。百俵の米は数日食べ終わってしまう。この米を売って学校を建てることこそが長岡藩が生きていくただひとつの道だ。」と言って説得した。こうして1870年学校が生まれた。そこから多くの優秀な人物が育った。そうして長岡藩は豊かに発展していた。
 日本は明治時代(1868~1912 年)に欧米の先進国に追いつこうと、技術者を招いてその技術を学んで。彼らの知識はすぐに全国に広まり、日本の産業は急速に発達したそうだ。多くの日本人がいわゆる 「読み書きそろばん]、つまり読むこと、書くこと、計算することができたからだ言われている。もし文字が読めなかったら、簡単なことでも文を読んで学ぶことはできない。人がそこに行って一つ一つせつめいしなければならない。これでは知識広まるのにかなりの時間が必要になる。
現在、国が教育を軽視しているとは言わないが、国の予算を見る限り重要視されているとも言えない。日本の将来は子供たちの肩にかかっている。その子供たちの教育費が少なくては国が滅びると言いたい。また、大学院を卒業している修士や博士が就職誰だと言われている。彼らの能力が生かせる場を作ることも待ったなしだ。大学院の進学率が下がることは、技術が国を支えている日本としては問題である。教育はすぐには利益として現れないけれど、長い目で見ると計り知れない効果をもたらす。いまこそ教育に重きを置いた国策を採るべきときである。
(注)長岡藩長岡ながおか:新潟県にいがたけんの地名ちめい
藩:昔の県の呼よび方

(1)教育費を家庭に頼っているとどうなるか。

(2)「米百俵」の話について述べているのはどれか。

(3)筆者の意見はどれか。

 甥達からお年玉をねだられる年齢になった。年端もいかぬ(注1)子に現金を与えることが、教育上よいのか悪いのかわからないけれど、正月くらいは四角張らくなても(注2)と、少額を与えることにしている。通常、何も言わないで手渡すが、子どもたちは、お年玉というのが普段の小遣いとは質的に異なるのを知っていて、おやつの菓子代にする、などということは決してない。金銭については現実的と言われる現代っ子が、神聖なものを扱うかの如く大事にしまい込むのを見ると、①何故かホッとするものである
 私も子どもの頃、お年玉をスタートに貯金を始めては、まとまったものを買うのが楽しみだった。昭和三十年頃だったか、一年がかりで百七十円を貯めて、野球バットを買ったのを覚えている。翌年はグローブを買おうと決心し、お年玉をもとにせっせと貯め始めたが、②八月につまずいた
 夏休みに入った六年生の私は、近所に住む一年生の鉄ちゃんと遊んでいた。と、鉄ちゃんが玄関脇の山椒の枝にものすごく大きなイモ虫を発見した。イモ虫、毛虫、みみずの類は、鳥肌の立つほど嫌いな私だが、六年生の面子を保つため、(中路)傍らに落ちていた割り箸のを一本拾い、十センチ以上もある黄緑色のイモ虫の突起だらけの腹をそれで支えて見せた。(中路)すると、イモ虫が鉄ちんゃの、首の後ろから背中にすっぽりと飛び込んだのだった。(中)無我夢中で引っ張ると、何とイモ虫はちぎれてしまった(注3)。慌てた私は再びちぎりまたちぎり、結局はぐちゃぐちゃしたものを何度もかきださねばならなかった。真っ赤になって泣き続ける鉄ちゃのんシャツも、蒼白になってかきだす私のシャツも、べっとりと緑に染まっていた。
(中路)
 翌日になって母にこっぴどく(注4)叱られた。鉄ちゃんの母親は抗議にきたという。母は、③私の責任だからと、貯金箱から虎の子の百円を抜き出させ、ブドウを買ってお詫びに行った。可愛い鉄ちんゃに対して何の悪意もなっかたのに、身の毛よだつの(注5)作業をした上、夢のグローブまで失うという結果になったのはどう考えても恨めしかった。
 お年玉の季節またがやって来た。、あれほど見事なイモ虫は、以後お目にかかっていない。この頃では、小なさイモ虫さえ見掛けなくなった。あの時のイモ虫ばりかが、心の中で年毎に見事さを増して行く。

(藤原正彦『数学者の休憩時間に』よる)


(注1)年端もいかぬ:幼い、大人になっていない
(注2)四角張る:堅苦しい態度をとる
(注3)ちぎれる:細かくばらばらになる
(注4)こっぴどく:ひどく
(注5)身の毛がよだつ:恐怖のために、身の毛が逆立つ達

(71)①何故かホッとするものであるとあるが、何についてホッとしたのか。

(72)②八月につまずいたあるが、つまずいた原因は何か。

(73)③私の責任だからとあるが、何を指しているか。

 どの分野でも、誰もが「あいつはできる」と認めざるを得ない人間が必ずいます。ビジネスの世界なら精力に的仕事をこなし、自分が思い描いたビジョンを着実に実現していく。現状を変革し、組織を常に成功へと導くような人たちです。
 ただ、そういう①優秀な人間というのは、残念ながなら、そう多くはありません。集団の構成比で言うと、せいぜい全体の5%の優秀な人間の活躍や成功を横目で見ながら、羨ましく感じた、ひそかに悔しさを噛み締めているというのが本当のところでしょう。
 (中略)
 それでは、「5%の優秀な人間」と、「残のり95%の優秀でない人間」の違いはいったい何か、ということが問題になります。
 人を「優秀な人間」、「活躍できる人間」にするものは何かー一
 これについては、昔から様々なことが言われてきました。それらを分類すると、「才能」、「努力、「ツキ」の三つにまとめることができます。「結局、才能ある人間が成功する」という人もいれば、「どんな天才でも努力にはかなわない」という人もいます。「ツキがなければ、天才も努力家も成功できない」という人もいます。
 しかし、大脳生理学によって、この三つを超えた成功原理が明らかになってきたのです。近年になって、脳の研究は目覚しい進歩を遂げていますが、その結果、「才能」、「努カ」、「ツキ」は、脳にインプットされた「記憶データ」に左右されていることが分かってきました。ここで注意してほしいのは、脳の出来、不出来ではなく、そこにインプットされたデータが人間の優秀さを決定するという点です。
 人間の脳は、十万台のコンピューターにも及ばないほど優れた機能を持つといわれています。そうした脳の出来、すなわち精度は、優秀な人も、うそでない人も、そんなに大きく変わりません。
 昔は、「天才の脳にはたくさんのシワがある」「脳細胞の数が多いと頭がいい」などといわれていましたが、現在ではそれらの説は完全に否定されてます。動物の中でシワが最も多いのは人間でなはく、イルカです。確かにイルカは非常に頭のいい動物ですが、人間より優秀な脳を持っているわけではありません。
 また、160億個といわれる大脳の細胞の数も、人によって差があるわけではないのです。
 こうしたことを考えても、「優秀な人間」と「そうでない人間」の差は、脳の構造や精度とは違います。
 ( ② )、問題は脳の中身です。
 つまり、「今までの人生で、その人の脳に蓄えられたデータ」よっにて、重大な差が出てくる。

(西田文郎『No.1理論に』よる)

(71)①優秀な人間とあるが、ここではどんな人を「優秀な人間」と言っているか。

(72)( ② )に入れるものとして、正しいのはどれか。

(73)文章の内容と合っているものはどれか。