以下は、ある農作物の販売者が書いた文章である。
 自分の手で作物を育ててみると、それが食べられるようになるまでどれだけ手間がかかるのかがわかる。また天候不順などに見舞われ(注1)たら作物ができないこともある。米や野菜は、工場で生産される製品のように、自動的・安定的に生産できるものではなく、自然の恵みの中で、人の手がかけられて自分たちの手元にまで届いているのだと実感する。 そうすると、たとえばお店で売られている野菜の値段を見ても、これまでとは違った見方になってくる。ただ単に安ければいいというものではないと思えてくる。
 価格というのは、現代社会では物に対する一つの評価基準である。安いということは、それを価値の低いものとみなしているといえる。一所懸命作ったものに安価な値段がつけられてしまうと、作り手としては非常にがっかりしてしまうことは想像に難くない。
 食料という、われわれが生きていくうえで欠かせないものまでも、ほかの品物と同じように商業主義の中に組み込み、商品の一つとして同じ土俵の上で(注2)競わせることが、はたしてほんとうにいいのだろうか。われわれの命をつなぎ、命を守るものを、安値競争に巻き込んでしまっていいものだろうか。 食べ物の作り手が、いいものを作りたいというモチベーション(注3)を失ってしまったら、最終的に困るのはわれわれ消費者なのだ。生きるための対価(注4)を支払っていると思えば、とにかく安ければいいという安易な選択はできないはずだ。
 だから、僕がやっている「青空市場808」では、他店と安値競争をするつもりはまったくない。もちろん、相場(注5)というものがあるので、それを参考にしているが、基本的には生産者に価格を決めてもらい、そのうえで販売価格を決める。
 一方、お客さんに対しては、なぜそのような価格になるのか、説明できなければならない。
どのようにしてこの作物は作られているのか。味にはどんな特徴があるのか。農薬は使っているのかどうか。
(中略)
 今、小売り(注6)が果たすべき役割は大きいと思う。小売りは生産者との信頼関係を築き、その信頼を消費者に伝えていく。一方で、安全や安心を求める消費者の声や、商品の評価を生産者に伝えていく。こうすることで、消費者の農薬への理解が深まり、ひいては(注7)消費者の健康な暮らしと命が守られていくのである。

(永島敏行『青空市場で会いましょうー日本の農と食はすばらしい』による)


(注1)天候不順に見舞われる:ここでは、悪い天気が続く
(注2)同じ土俵の上で:ここでは、同じ条件で
(注3)モチベーション:意欲
(注4)~ための対価:ここでは、~ために必要なお金
(注5)相場:一般的に適当だとされる値段
(注6)小売り:ここでは、農作物を生産者から買って、消費者に販売する職業
(注7)ひいては:その結果

(71)作物を育てると、これまでとは違った見方になってくるとあるが、なぜか。

(72)農作物の値段をつけるときに、筆者が最も重視しているのはどのようなことか。

(73)小売りが果たすべき役割として、筆者が重要だと考えていることは何か。

 幸福は人生の目標である。それだけに一体どういうものが「幸福」なのか知るのは、それを追及する前提として深刻な 課題であると思う。あるとき、若い人が、私に向かって「幸福というのはあるのか」と深刻そうな顔をして聞いたことがある。
 彼は人間の欲望(注1)というのは無限に続くものであるから、幸福感まではなかなか到達しないのではないかというの だ。なるほどそういえるかもしれない。人間が進歩する動物であるならばなおさらのことだ(注2)
 でも、私は幸福は存在すると思っている。趣味に例をとっても、ある人は野球することをあげ、他の人達は読書や映画、 音楽とそれぞれに主張する。登山や魚釣りという人もいるだろう。このように趣味は人によってさまざまだが、同様に幸 福についても人によっては考え方がまちまちだ(注3)と思う。
 「幸福とはどのようなもの?」と聞かれたら「裕福(注4)になること」と答える人もいるのだろう。また、「社会的な地 位に到達する」のを幸福だと考えているかもしれない。逆にそのような裕福とか社会的地位を否定して、「心の豊かな人」 になることが幸福だと思っている人もいると思う。思想や感情、さらには生活様式さえ異なる人間のことだ。幸福につい ての考え方に、差があってもいいのではないか。ただ同じく裕福を主張しても、多くの人の幸福を願って慈善事業に協力 する人もいれば、一方には「がめつい奴」の看板を背負って生きてるような人(注5)もいる。他人になんといわれようと、 その人はそれで結構幸福なのだ。人間は自分のために生きるのだから、他人に迷惑さえかけなければこれでもいいのである。
 しかし、私はスタートの段階ではそれでもいいが、いつまでもそのままの考えから進歩しないのでは困ると思う。私自身としては、別な生き方をとる。
 幸福というものについて、これだといい切れる考えはまだ私も持っていないが、私は「会社での仕事も楽しく、家庭で の生活も楽しい、つまり一日二十四時間を楽しく過ごすこと」が幸福だと思っている。言葉はすこぶる(注6)平凡だが、この内容は非凡だと自負して(注7)いる。それと、自分の幸福な状態が「他人の目にも楽しく、心も楽しませる」ものでありたいとも私は思う。

(本田宗一郎『得手に帆あげて』による)


(注1) 欲望:欲しいと強い望む気持ち
(注2) なおさらのことだ:ここでは、ますますそうだといえる
(注3)まちまちだ:それぞれ違っている
(注4) 裕福:金持ち
(注5)「がめつい奴」の看板を背負って生きてるような人:けちで欲張りな人
(注6) すこぶる:非常に
(注7) 自負する:自分自身に自信や誇りを持つ

(71)若い人が「幸福というのはあるのか」と聞いたのはなぜか。

(72)筆者はスタートの段階ではどうすればいいと述べているか。

(73)筆者の目指している幸福とはどのようなものか。

 昔ながらの古い商店街に客が来なくなっています。人口減少や車社会になり郊外の大型店に客を取られたからです。閉店した店が多い商店街は店のシャッターが下りたままなのでシャッター通りと呼ばれています。
 このままではいけないとユニークな商店街を作ったところがあります。ある商店街は空いた店を利用して無料で健康相談、料理教室、子育て相談、そろばん教室、英会話教室などを行っています。少しでも人を呼び込もうというのです。努力の結果今では客が次第に増えてきたそうです。
 またある商店街は30年間も続いた不況を、懐かしい昭和の町並みを復元することで克服しました。最高でも2万人だった客が今では30万人にも増えました。地域の人ばかりではなく多くの観光客が訪れるようになったからです。都会から若者も戻ってきて町はますますにぎやかになりました。
 また占いを取り入れた楽しい商店街もあります。ある時商店街占い師21人を呼びました。その行事に予想を上回る多くの女性客が集まり、マスコミにも取り上げられました。そこでこれを街の再生に使おうと占い館を作って毎日占いができるようにしました。また第4金曜日には占い師を約30人呼んで商店街の道路上で占いをさせました。店にも占いと商売を結び付けるように協力してもらいました。例えばある居酒屋は割り箸で運試しをして当たった人にはビールを1杯サービスしています。眼鏡店では当たった人に10%の割引をしています。肉屋も占い(注)大吉コロッケを売り出しました。すると真剣に運命を占いほしい人も遊びでちょっと運命を見てほしい人も次々と訪れるようになりました。
 これらの例を見ると、どの商店街にもアイディアがあることがわかります。また地域だけに留まらず広く人を呼び込める商店街を作っています。お客が来なくて困っている全国の商店街もみんなでいいアイディアを出し合って地域の特色を出した魅力ある商店街を作ってほしいものです。

(1)日本全国の商店街は今どんな状況か。

(2)占い商店街でしていることはどれか。

(3)これらの商店街が成功した一番の理由は何か。

「少しは体にいいことをしなくてはJと、心悩ませる人が手軽にできることの一つに「野菜ジュースを飲む」があります。あなたは野菜不足だ、もっと食べなさい、と常に「強迫(注1)」されているような人にとって、野菜ジュースを飲むことは手っ取り早く「いいことをした」気分になれる飲料のようです。その利用を見込んで(注2)飲料の売り場にはたくさんの種類の野菜ジュースが並べられています。
 しかし、残念ながらどれを飲んでも①野菜を食べた代わりにはなりません。なぜかと言いますと、「野菜ジュース」というのは野菜の!しぼり持だけを集めたもので、持に入り込めない成分は取り除かれてしまっているからです。野菜ジュースで摂取(注3)できるのは液汁部分の成分だけです。
 野菜を食べることが大切、といわれる理由は大きく三つあります。
 一番目は野菜に含まれる成分のうち、体内に吸収されて重要な役割を議じる物質が議域できるからです。ビタミン類やミネラル類はもちろん、最近はこれら以外のわずかに合まれる成分にも注同が集まっています。
 二番目は、食物繊維(注4)が議最できることです。食物繊維は体内に吸収されない成分であるため、消化管の中を移動し、大使のもととなり便秘を防いでくれます。
 三番目はさまざまな荷額の野菜が、味や歯触り、季節感など、私たちの食事を楽しませてくれることです。
 生のままで、あるいは、ゆでたり、煮たり、妙めたりなど、どのような調理方法をとるにせよ、野菜を食べる場合には、それを口の中でよくかんで、飲み込んで、すべての成分を消化管に送り込んでいます。歯の弱い人や赤ちゃんには軟らかく煮た野菜をつぶしてドロドロにして食べさせます。この場合も、かむことは省略していますが、野菜全体を食べていることは同じです。だいこんおろしのように野菜をすりおろして食べることもありますが、この場合も野菜全体を食べています。
野菜全体を食べて、はじめて野菜を食べる意味が達成されます。
メーカーや野菜の樟類によって野菜からジュースをしぼる製法は異なりますが、いずれにしても、野菜をいったんすりおろしたり、つぶしたりしてから汁をギュッとしぽりとるわけです。食物繊維やカルシウムなどはしぼり(注5)かすに残る躍の多いことが国民生活センターの笑験からも確かめられています。
(肉橋久仁子r 「食べ物神話」の泌とし穴』講談社による)
(注1)強迫:無理に要求すること
(注2)見込む:予想、したり期待したりする
(注3)摂取:外から取り入れて自分のものにすること
(注4)五栃議議:消化されない食物の成分
(注5)しぼりかす:しぼったあとに残ったもの

(71)なぜ、野菜ジュースは①野菜を食べた代わりにはならないのか。

(72)野菜を食べることが大切な理由として、適切ではないものはどれか。

(73)この文章で筆者が言いたいことは何か。

 自分の能力や適性と、実際に就いている職業や希望する職業、あるいは生き方が必要とする能力や適性 との間のギャップに悩むというのは、①よくあることです。むしろピッタリー致しているとか、能力・ 適性が十分あるとかいうケースのほうが稀でしょう。 
 もともと能力とか適性というのは、とてもつかみどころのないものであり、また経験によりたえず引き出されたり磨かれたりしていくものです。運動面の能力や適性は比較的はっきり表面にあらわれるし、素質の影響が強いと思われますが、知的側面や社会的側面の能力や適性は自分自身でもなかなかわから ないし、また経験によって伸びていく可能性も十分あります。 
 実は、能力や適性がないという自分観も、努力する一歩を踏み出すことのできない②自分に対する言い 訳として用いられている面があります。仕事がうまくいかない人が自分にはどうもこの仕事の 適性がな いと嘆いたり、今の仕事が向いてないと言いつつ転職への覚悟ができない人が、自分には能力がないからどんな仕事に替わってもどうせダメなんだと自朝(注1)気味に言ったりするのをよく耳にします。 このような言い方も、今ひとつ頑張りきれない自分や、思いきって仕事を替えてみる勇気のない自分に 対する弁解 (注2) だったりするのです。 自分は能力がない、適性がない(注2)自分には無理だなどと装縮(注3)している人は、それは勝手な思い 込みにすぎないのではないか、意欲や行動力の乏しさに対する弁解にすぎないのではないか、と自らに 問いかけてみるべきでしょう。能力や適性というのは、昨日までなかったのに、気持ちを入れ替えたか らといって突然高まるなどということは考えにくいものです。しかし、意欲や行動力なら、気持ちを入 れ替えることで突然高まるということは十分ありえることです。 
 ゆえに(注4)、自分自身の不遇(注5)な職場生活や充実感の乏しい仕事内容の原因が、能力や適性の 不足でなく意欲や行動力の不足であることが明らかになれば、「どうせ自分には無理だ」といった後ろ向 きの姿勢から、「やるだけやってみるか」といった前向きの姿勢に転じることもできるはずです。 

 (模本博明『社会人のための「本当の自分」づくり』による) 


(注1) 自嗜: 自分をつまらない、だめな人間だと思うこと 
(注2) 弁解:言い訳 
(注3) 菱縮している:自信をなくして消極的になっている 
(注4) ゆえに:だから
(注5) 不遇な:恵まれない

(71)①よくあることあるが、どういうことがあるのか。

(72) ②自分に対する言い訳の例として、最も近いものはどれか。

(73)筆者がこの文章で言いたいことは何か。

 「ぼくは学生時代から数学の成績が良かったから、数学の才能はある方だと思もうのですが・・・・・」
 わたしは学生時代から数学がまったくダメで、全然才能がありません。これが息子に遺伝するのではないかと心配で・・・・・」
 こんな話をよく耳にする。多くの人ひとが、数学の才能があるかないかおいうことを、学生時代の数学のテストの点数で論じているのだ。しかし、小学校の算数から始まって、大学の学部程度までの数学を理解するのに、才能も何も関係ない。①それを理解する能力は、日常生活をきちんと送れる能力とあまり変わらない。そう私は思もっている。②「数学の才能」と呼ぶのにふさわしい能力の持もち主しとは、歴史に名前を残こしているような大数学者を言うのであって、百年に一人いるいないだというのが私の考えなのだ。
 では、「大学の学部程度までの数学を理解する能力」、すなわち「日常生活をきちんと送くれる能力」とは、どんな能力だろうか?
 だいたい次の四つのことができる能力と考えればいいだろう。それができれば、後あとは、努力次第である。その四つとは、「辞書を引くことができる」、「自分のカバンを自分のロッカーに入れられる」、「料理を作くれる」、「地図を描ける」である。なぜ、これらの能力があれば、大学の学部までの数学は理解できると言えるのか。
 例えば「英語の辞書が引ける」ということは、アルファベット26文字の順序関係を理解できるということだ。国語辞典なら、51もの数の小関係が理解できるということになる。「自分のロッカーが使つかえる」ということは、自分のカバンを自分番号のロッカーにしまえるということだから、すなわち「一対一」対応たいおうの考え方かたを理解できると言うことだ。「料理を作つくれる」ことは、ものを観察かんさつし、予測よそくする力ちからがあることを意味し、「地図を描ける」ことは、線や記号を使かって実際の空間を平面にする能力、すなわち、抽象化する能力を意味しているのだ。
 だから、これら四つの能力があるにもかかわらず数学ができないという人ひとは、数学を理解する能力がないということではなくて、単に努力をなぜ、なまけていただけだと思もうのだ。

(69)①それは何を指しているか。

(70)筆者の考える②「数学の才能」とは、どのようなものか。

(71)筆者がこの文章で言いたいことはどんなことですか。

 人生はいつも肢になぞらえられる(注1)
 人は人生という脹路を、地図もなく歩いている。誰(注2)しもそうだし、それが人間としては自然な姿である。人生に地図などあるわけがない。なのに人は、人生の地図をもとうとするのが常だ。暗闇の中を歩くのが不安で仕様がないのだ。迷ってしまった時の恐怖を想像したくないからだ。
 そして自分の地図には、人生の設計図としてわがままな道程(注3)が記されている。三十歳までには結婚し、三十五歳頃には二人の子どもをもつ。四十歳には課長になり、五十歳までには何とか部長に昇進(注4)する。
 (中略)
 人生の地図に描かれた道を、その通りに歩むことができるなら、そんなに楽なことはない。一度も脇道にそれずに、ただまっすぐに歩くことができるのなら、人は何も悩まなくても済むだろう。そんな人生を送る人聞は、おそらくこの世に一人もいない。もしそういう人聞がいるのだとしたら、それはその人間の人生ではない。その人生は他人から与えられたものに過ぎない。
 五十歳の時には部長になっている。これは今という現在地から見た目標であろう。目標をもつことはもちろん大切なことだ。しかし、その目標へ辿り着く道は決して一本ではない。五十歳という現在地に立った時、もし部長になっていなければどうするのか.一枚の地図しか持っていない人、あるいは決して地図を書き変えようとしない人は、そこで人生の現在地を見失って(注5)しまうだろう。「今、自分はこの場所にいるはずなのに、全く違う所に来てしまった」と、そんな思いにとらわれ(注6)てしまい、行くべき道も見失ってしまうのである。
 地図をもたない人生が不安であるならば、地図をもてばいいだけのことだ。しかし、その一枚の地図にこだわってはならない。常に現在地を確認しながら、どんどん地図を書き変えていくことだ。少し脇道に入ってしまったのなら、その脇道を歩いてみればいい。無理をして元の道に戻ろうとしても、余計に迷うだけだ。協道を歩いているうちに、心つの間にか元の道に戻ることもあるだろうし、また別の大通りに出会うこともあるだろう。人生には数え切れないほどの道があることを知っておいたほうがいい。今いる場所さえしっかりと認識(注7)できていれば、人はどんな道だって歩いていくことができるものだ。

(立松平和『人生の現在地ーーまだまだ迷っているぞ、私は。』による)


(注1)なぞらえられる:たとえられる
(注2)誰しも:誰でも
(注3)道程:ここでは、道
(注4)昇進する:出世する
(注5)~を見失う:~がわからなくなる
(注6)とらわれる:縛られる
(注7)認識できる:わかる

(71)筆者によると、なぜ人は人生の地図をもとうとするのか。

(72)その人生とは、どのような人生か。

(73)この文章で筆者が最も吉いたいことは何か。

 以下は、あるデザイナーの書いた文章である。私のアイディアのもとは、自分の生きてきた道の中にすべて詰まっているのだ、というふうに思っています。いままで生きてきた中で、感動したことを現代に持ち帰ってくる。過去の中で感動したことをコピーして、それをデザインしているのです。アイディアはいつも人から、時代からもらう。自分で考え出すことは少ないのです。私は、感動したときのシーンはよく覚えています。色も匂いも形も光も季節も、そのときの景色も、そのときその場に誰がいたかも、何を食べたかも、思い出の中に鮮明に刻み込まれています。感動すると、それくらい記憶装置が自動的に働いて、すべてを映し込んでいるのです。
 (中略)
 中学の頃のこと、高校のあのとき、社会人になったときのこと、妻と旅をしたときの情景などいろいろなシーンが思い出されて、それを遡って切り取りにいくわけです。けれどもそれが、もやーっとした(注1)ものだと切り取れない。なぜ、もやーっとするかと言えば、心の底から感動していないからです。しっかり感動していないと、持ち帰れないのです。
 感動は、自分の力だけでなく、親のカだったり、友だちのカだったり、ほかの人の力によってもつくられています。子供のときから、大事に育てられたとか、自分を包んでくれる街がきちっと大人たちによって美しく保たれていたとか、そういう周囲のカでつくられている場合もあるわけです。そうした感動の思い出を大切に持ち帰ってきて、いまあるものとコラボレーションする(注2)と、新商品が生まれます。そういう意味では、まるっきりの(注3) 新商品なんてあり得ません。アイディアはいつも、そんな過去の「感動の森」の中から探し出してくるものなのです。
 いい思い出がたくさんあるかどうか、いい人に会ったかどうか、美味しいものを食べたかどうか。そういうヒト・コト・モノとのよき思い出の引き出しをどれだけ持っているかによって、アイディアの湧き出る(注4)量は変わるのです。

(水生人ちあと 秀信 やってみよう一私の仕事哲学』による)


(注1)もやーっとした:はっきりしない
(注2)ラボレーションする:ここでは、組み合わせる
(注3)まるっきりの:全くの
(往4)湧き出る:ここでは、生まれてくる

(71)感動したことを現代に持ち帰ってくるとは、どのようなことか。

(72) 感動について、筆者の考えに合うのはどれか。

(73) アイディアについて、筆者はどのように考えているか。

以下は、自分の仕事として、さまざまな地域の課題に住民とともに取り組んでいる人が書いた文章である。
よく考えてみれば、幼稚園のころから僕はずっとヨソモノ(注)だったような気がする。親が転勤族だったため、おおむれね4年に一度は転校生になる。クラスに馴染んできた(注2)なぁ、と思ったところに引越しすることになる。幼稚園も小学校も中学校もふたつずつ通った。そのたびに転校生としてクラスをヨソモノの視点から維穴する。誰がクラスのボス(注3)なのか。誰と仲良くなると仲間に入れてもらいやすいのか。誰と誰は仲が廊くて、誰とは仲が悪いのか。そういうことばかり読み取ろうとしていた。自分でも嫌な小学生だと思っていたが、そうやって自分の立ち位置を見つけなければグラスズスの中に入ってのが難しかった。
 いかも①同じことをしているような気がする。集落(注4)へ行っては、誰が権力者』(注5)なのか、誰が正しいことをしいっているのか、誰の意見が重視されているのか。誰と誰は伸がいいのか。そんなことを読み取ろうとしている。そして、4年くらい経ってらその集落からいなくなる。いまでも転校季のような生活である。
 そんな少年時代だったから、「出身地はどこですか?」と聞かれるのがつらい。どこも4年間しか住んでいないので、出身地は適当に決めるしかない。出生地(注6)は明確だが、僕の場合は生後2年間しかその場所に住んでいない。もちろん当時の記憶はない。
 だから「ふるさと」を持つ人に対する憧れがある。「いつかは地元に戻って働きたいと思っているんだ」「出身地を元気にしたいと思っています」という言葉を聞くたびに②羨ましくなる。逆に、ふるさとを悪くいう言葉を聞くのはつらい。「田舎だから」「何もないから」「呈を引っ張り合うょの」「新しいことができない」。せっかくふるさとを持っているのに、それを悪くいうのはもったいない。ふるさとはいい場所であってほしい。だから、その手伝いがしたいと思う。どこまで行ってもヨソモノだが、その立場から少しでもふるさとがいい状態になるように努力したい。どの場所も、たくさんの人にとってのふるさとであり続けるのだから。

(山崎売「『コミュニティデザインの時代』による)



(注1)ヨソモノ:よそから来た人人
(注2)馴染む:慣れて親しくなる
(注3)うボス:ここでは、カを持った人
(注4)集落:ここでは、村のようなところ
(注5)権者:ここでは、方を持った人
(注6)出生地:生まれた場所
(注7)足を引っ張り合う:成功するのをじゃまし合う

(71) ①同じこととあるが、集団の中でどのようなことをしているのか。

(72) ②羨ましくなるとあるが、なぜか。

(73) 筆者の考えに合うのはどれか。

 正しい仕事の任せ方というのは、一体どのようなものだろうか。
 理想的なのは、部下の実カよりも少し上のレベルの仕事一部下が何とか自分のカで判断・実行することができ、ときには(注1)小さな失敗を招くであろうレベルの仕事を任せることだ。
そういう仕事を、段階的にレベルを上げながら与えていくことで、部下は着実には仕事カを磨いていくのだ。
 ところが、そのような仕事を部下に与えたとしても、日本の会社では、「ホウ・レン・ソウ」(報告・連続・相談)などといって、上司がいちいち部下の仕事に告渉し(注2)がちだ。そして結局は、部下に自分のカでハードル(注3)を乗り超えさせないことが多い。
 たとえば、あるプレゼン資料を部下につくらせるとする。日本の会社の多くの上司は、全体像を玉さず、ただ「こういうものをつくれ」と部下に明昧に命じ、持ってこさせる。
 そして「ここをこう直せ」と要求し、部下はその意図がわからないまま上司の指示通りに修正をする。そんなことを何度も繰り返す。その結果、部下に身につくのは、エクセルやらポワーポイント(注4)の操作法だけ、ということになる。これでは、レベルの高いプレゼン資料を自分で考え、つり上げるカはつかないだろう。
 そうではなく、「この資料は、こういう目的で、こういう相手に対して、このように説得するために使用するものだ」という全体像を事前に明確に説明すべきだ。その上で、見本を見せて、あとは部の創意工夫(注5)に任せ、部下に最善だと思う資料ができるまで口出しはしない(注6)ことだ。
 結果的に出来上がるものが、上司の想定するものと違うこともあるろだろう。しかし、その資料をつくる訪図、全体像がつかめてい札ば、なぜいけないのか、どこが思いのか、どう修正すればよくなるのかがわかるし、上始からの修正指示に納得もできるし、学ぶこともできる。
 部下は、「いや、そういう目的なら、自分だったらこうするけどなか……」と思うかもしれない。それならそれでいいのだ。そういうことを積み表れねながら、最終的には、部下は自分なりの仕事のやり方を確表(注7)していくはずだ。上司ではきえられなかったようなレベルの高い資料を作ることも、いずれはあるかもしれない。
 繰り返すが「部下を教育するのが上司の役目」というのは間違っていろる。部下を育てるのは「仕事」そのものであり、その仕事をするための「場を与える」のが上司の役目なのである。

(注|) ときには : 場合によっては
(注2) 平消する : ここては、有必要以上に関わる
(注3) ハードル : 降害
(注4) エクセルやらパワーポイント : コンピュータのソフト
(注5) 創意工夫 : 新しいアイデアやエ夫
(注6) ロ貼しはしない : ここでは、何も言わない
(注7) 確立する : ここでは、しっかり身につける

(69)そういう仕事をとはどのような仕事か。

(70)筆者によると、上司が部下にプレゼン資料を作成させるときに大切なことは何か。

(70)筆者によると、上司としてするべきことは何か。